● 奥野修司「心にナイフをしのばせて」
石塚章夫 
 山口県光市の母子殺害事件は、被害者の遺族の被害感情の表明や裁判員裁判下での量刑問題とも関連して、大きく報道された。母を殺害後に姦淫しそばにいた幼児をも殺害したこの事件は、第一審で無期懲役の判決が下され、控訴審でもその判断が維持されたが、最高裁判所は死刑の余地ありとして原判決を破棄し広島高裁に差し戻し、同高裁は2008(平成20)年4月22日死刑判決を言い渡した。遺族である父の訴えは、右の審理経過に大きく影響したばかりでなく、「犯罪被害者関連施策」の立法化にも大きく寄与した。柴田よしき「回転木馬」(祥伝社)には、この事件をモデルにしたと思われる遺族(小説では母)が登場する。夫と子を殺害して無期懲役の判決を受けた犯人が十数年後に仮釈放されると知り、そのとき自らの手で犯人を殺害することだけを目的に生き続ける女。小説では、その女性にもある救済が訪れることが暗示されている。
 頭書の本は、これとは全く別の遺族の姿を追ったドキュメンタリーである。1969(昭和44)年に神奈川県で、高校一年の少年Aが同級生を殺害する。息子を亡くした衝撃で母親は事件後数年間の記憶がない。妹は「兄の代わりに死ねば良かった」とリストカットを繰り返す。三十数年の歳月は遺族の傷を全く癒していない。作者は「あとがき」で書いている。「とりわけ驚いたのは、母娘そろって、加害者を恨んだことがなかったと言ったことである。恨まなかったのは、自分たちの家族を回復させ、本来の姿を取り戻すことに精一杯で、加害者を恨む余裕がなかったためだと知ったとき、あらためてあの事件の凄まじい破壊力を思い知らされることになった。」この本にはもう一つの山がある。作者が、少年Aのその後を追い(当時の少年法等の規定により少年審判や少年院での処遇はすべて非公開・非通知であるため、その追跡は大変難しい)、Aが現在弁護士となって「社会復帰」していることを突き止めたのである。Aは被害者遺族に対し、慰謝料支払いはおろか謝罪すらしていない。この、被害者と加害者の落差に思いを致すとき、これまでの少年事件・刑事事件の関係者は(私も含め)被害者の問題を軽視していたと痛感せざるを得ない。これまでの制度は、報復・決闘・仇討ちといった復讐の連鎖を断ち切るために刑罰権は国家が独占し、検察官が被害者の立場を代行していた。裁判を担う者たちにとって、被害の事実は多くの事件被害の中の一つに過ぎず、いわば「他人事」の色合いが強かった。今回の法改正で、犯罪被害者が被告人に質問したり自分の意見を公判で陳述したりできる制度が採用された。「他人事」の裁判関係者の中に「自分事」の被害者本人が参加することになったのである。

 裁判員制度が実施された際の裁判員はその事件一件だけを担当する。職業裁判官のように多くの事件の中の一件、ではない。その分事件の「他人事」性が薄くなり、被告人に対しても、また被害者に対しても、より「他人事とは思えない」人たちによって裁判が担われることになる。担う側は確かに大変だろうが、裁判にとってそれは良いことに違いない。
(文藝春秋社)