● 例会発言の趣旨
弁護士G(サポーター)

 「それでもボクはやってない」を巡っての例会の席(後半)で云いたかったことは概要以下のとおりです。
 先輩同僚緒兄姉のご教示とご批判を賜れば幸甚です。

   第1 問題意識の所在
      裁判員制度は、冤罪事件の個性に焦点を当てることができるか。

   第2 結論
      その保障はない。

   第3 理由

  1. 休憩前の議論で痴漢冤罪事件の問題点が示された。冤罪の根源は、被告人の弁解に耳を傾けない裁判官の姿勢にある。裁判官は、有罪率99%以上を前提に、当該事件も有罪であるとの先入観をもって事件に臨む。裁判官の心に、「被告人は罪責を免れるためにウソをつく」との先入観がある。自由心証主義に修正を加える必要があるとの意見もあった。

  2. 裁判員制度は、冤罪の根源が克服されるかどうかによって評価が決まる。裁判員法62条によって刑訴法318条を修正しても、評議によって裁判官の先入観が克服されなければ意味はない。

  3. 無罪を主張する被告人の弁解の受け止め方には両極がある。、(1)弁解自体の内在的合理性の有無を徹底して検討するのか、(2)弁解以外の積極証拠に依拠して無罪の主張を外部から批判・排斥するのかという二つである。有罪の先入観があれば、(1)は粗略に扱われ、(2)に重点が移行し、被告人の弁解は、実質のない理屈によって排斥される。同一の事件が第1審で有罪になり、控訴審で無罪になる。その逆もある。いずれの場合も、裁判官は主観的には経験則を適用して証拠を取捨するとされる。

  4. 経験則とは、「経験から帰納された事物に関する知識や法則」である。裁判官がその人生経験に基づいて、証拠評価の基準となる知識や法則を帰納していることとされる。しかし、「殺人を犯していないのに不当な疑いをかけられた」との弁解は、それぞれ個性的である。冤罪事件の個性ないし特殊性とは、一般的知識・法則の境界事例ということであり、むしろ経験則の範囲外と認識すべきである。経験則を適用して事実の存否を識別するというのは多分にフィクションである。

  5. では、裁判官は、冤罪事件の有罪認定に当たりいかなる準則によって証拠を取捨しているのか。それは、先入観に支えられた積極証拠の偏重に過ぎず、無内容であるから基準を客観化することはできない。本質は、信用できるから信用するという同義反復以上のものではない。一般に心証形成過程は、積極的には説示し難いといわれるが、事柄の性質上説示できないのである。このような判断が誤りであるとして、積極証拠が排斥される場合に初めて経験則が実質的に援用される。経験則は積極的準則ではなく、消極的準則である。しかるに、裁判官は、積極消極の両面にわたって経験則に従って証拠を取捨するといわれている。刑訴法318条との整合性を確保する必要があるとしても、証拠を採用する場合は形式的経験則であり、排斥する場合は実質的経験則として区別する必要がある。経験則適用がフィクションだというのは、二つの経験則が齟齬する場合の形式的経験則のことである。

  6. 裁判員は、このような経験則は持たない。市民たる裁判員に期待される役割の核心は、同じ市民である被告人の弁解に対するトータルな共感力・了解力ないし追体験力である。市民として、「被告人が無罪を主張するからには余程の理由があるのではないか。その理由は何か」という姿勢を前提にする。これは、少なくとも形式的経験則とは別物である。裁判員法62条の意義はそこにある。その力によって裁判官の先入観を打破することが期待される。

  7. しかし、裁判員の共感力は、期待であり仮定である。現実であったとしても、論理によって維持されるとは限らないから、裁判官の形式的経験則によって分解されて無力化される危険に曝されている。裁判員の中から実質的経験則が発現しても形式的経験則を乗り越えるには著しい困難を伴う。更に、裁判員は公判前整理手続に参画しないから、裁判員の関心に即した審理計画が樹立される保障はない。
    裁判員法62条が所期の機能を発揮するためには、様々な前提が充足されなければならない。

(平成19年8月)