● 異文化交流のお話し ー パキスタン人お嬢のこと ー
茄子直人(ファンクラブ会員,東京)
 「おとまりできる?」受話器の向こうからパキスタン人お嬢、アニーシャの可愛い声が …。「ちょ、ちょっと、今日は……」口ごもりながらも必死に、断りの口実を探している私の顔を家内がそばで、ニンマリしながら覗きこむように見ている。

 家内は、私の週末の楽しみであるテレビの寅さんシリーズ「男はつらいよ」の再放送の視聴が、ディズニィーチャンネルに取って替られてしまうことを知っているのだ。「さて、どうするか、うちの旦那は…?!」と興味津々の様子。

 「おじさん、まだ、食事じゃなくて、えーと寝てない。じゃなくて」急な‘御泊り保育’の電話にしどろもどろな私。「だいじょうぶ、だいじょうぶ。いいでしょ」顔を見ないで、言葉のイントネーションだけ聞いていると、日本人の子供とまったく同じ、反対に日本人の子供にない押しの強さで「今から、行くから」と決定打を放つ。

 「えッ!?今から、来るの…」一瞬心の中で叫んでいた私。「『フーテンの寅』に会えないじゃないかッ。せっかく楽しみにしてたのに、今日はご勘弁を…」この時間に来られたら、完全にテレビのチャンネル権はアニーシャの手中に…、なんとか阻止しなければ、と頭の中は緊急赤色灯のように回り放し。

 相続問題にからむ貸し金事案で、身内から二人の弁護士を立て提訴された私。原告代理人ベテラン二人の弁護士相手に、準備書面の作成から事務手続きのすべてを本人訴訟でやりながら、怯むこともなく法廷で渡り合っている旦那の子供相手の窮地。

 「さて、どうする、どうする、どうしたの?」と口元に笑みを浮かべて、抗弁の成りゆきは如何と見守る家内の冷ややかな目つき!

 それは、法廷で裁判官に尋問を受けている時より数百倍の力で胸に突きささった。援軍来らず!抗弁に窮して、なぜか口を突いて出た言葉は「わかった」の一言!

 あー、これで万事休す「フーテンの寅」ともお別れか…!

 家内は、私の言葉を聞くやいなや、さっそくアニーシャを迎えいれる準備をし始めた。まるで、それは私が断ることがで出来ないことを察していたかのような手際の良さで、寝具の用意などに取りかかった。

 私はというと、何とも言えぬ自己嫌悪に落ち込みながらも、反面、なぜか沸き上がるウキウキした気持ちで、アニーシャの好きなお菓子を買いにコンビニまで自転車を走らせた。お菓子を買うこと一つとっても、イスラム圏の食生活には多くの制約があるので食品の買い物には神経を使います。イスラムの律法にのっとった食べ物のことを「ハラール」と言い、反対に、豚肉を代表とするアラー(神)により禁じられた食べ物をハラームと言って絶対口にしてはいけないからです。ビスケットやクッキーなども調理油に獣油脂を使うと邪悪な食べ物になってしまうのです。

 アニーシャと知り合った当初、お菓子を出しても絶対口にせず、遠慮しているのかと思い無理矢理持たせると、困った顔で「家に持って帰る」と言って、私たちの前では絶対口にしませんでした。その後、食品に厳しい戒律があることを知り、私達夫婦は、ハラールとハラームの食品について勉強したことをアニーシャの家族に伝え、出す食べ物についても神経を使うと、アニーシャも「これ、ハラール?」と言いながら、日本のお菓子を食べるようになりました。今では、「梅干し入りのおにぎり」や「お餅」が大好物です。 

 このように、アニーシャと付き合いだしての足掛け4年間で、食生活をはじめとする多くの文化の違いを知りました。

 また、そこから発生する数々の衝突を乗り越え、インターナショナルスクール3年生のパキスタン人お嬢が、「お泊まり保育」を楽しみにするまでに私達夫婦の懐に飛び込んできてくれたことは嬉しい限りです。わがままぶりを発揮する時もありますが、今や私達夫婦にとっては孫みたいな存在になっているのも事実です。 

 パパのお兄さんは、ポリスマンが警護するほどの裁判官で、ママのお父さんがドクター、兄妹の多くが外国暮らしを経験している家系。腰が低く「気配りのパパさん」と私達が夫婦間で言うパパも、勿論、国のトップ企業のお偉いさん。そんな、超エリート家系の子なので、他人から叱られたことがないアニーシャ。

 片付けをしないことを叱ると、以前は腹を立て、花壇の花を折っていったり、物に八つ当たりしていましたが、「アニーシャを愛しているから、怒るんだよ」と言い聞かせながら、肌身をもって接してきた歳月の流れと本人の成長が相まって、今では怒られても物に八つ当たりすることもなく片付けをします。

 そんなアニーシャとの交流過程を考えながら、ハラールのお菓子を買って帰宅。その十分後にパパの車で、片道20分の道のりを、御泊まり道具を一式携えてアニーシャが我が家にやってきました。我が家に来るなり早速、テレビのリモコンを手中に収め、ディズニィーチャンネルをはじめとするキッズ番組のご視聴となりました。

 これで、完全に私は画面上で、大好きな「フーテンの寅さん」と御会いすることは出来なくなったのであります。まったく、こっちが「男はつらいよ」と言いたいくらいの週末の夜、深夜12時までアニーシャの手から、テレビのリモコンが離れることはありませんでした。

 そして、深夜12時を少し回ったところで、日本のグランンドファザー・マザーみたいな私たち夫婦と、異国人のパキスタン人お嬢のアニーシャが、和室の部屋で布団を並べてスヤスヤと。

 今、こうしてこの一文を書いていても、雨の日の我が家でのアニーシャと近所の子供たちとの「ドタバタ陣取り合戦」、そして遊園地での異国人の子供たちとの交流に参加したことなど、アニーシャを通じた多くの思い出が脳裏をよぎります。

 さらにアニーシャ家族の招待を受け、東京大学メディカルセンターで行われたラマダン(断食月)明けの食事会への参加など、異質の文化を持つ人たちとの数々の交流。

 そんな異文化交流の数々が、同文化・言語を共有し、ごく身近な存在である身内から訴訟と排斥を受け、裁判という争いの中に期せずして身を置くことになった私の渇いた心に、砂漠に降る雨のごとく恵みの水と潤いを与えてくれたのです。(終わり)

(平成19年4月)