● 「それでもボクはやってない」と裁判員制度
ファンクラブ会員(匿名希望,公務員)
 周防正行監督の「それでもボクはやってない」を観てから,再び刑事訴訟を勉強したくなって,いろいろと本を読んでいます。そういえば,私は,学生の頃,国家権力の横暴から様々な法的手段を駆使して庶民を救い出す,正義の味方のような弁護士になりたくて,司法試験の世界に片足を突っ込んでいたのでした。今では,自分が思い描いていた仕事とは違う仕事をしていますが,「それでもボクはやってない」を観て,胸が熱くなりました。

 最近,「それでもボクはやってない」のシナリオが完全収録された同名の書籍を購入して読んだのですが,そちらも映画に負けず劣らず面白かったです。周防正行監督は,木谷明氏の「刑事裁判の心」という本から非常に大きな影響を受けたということで,映画完成後に著者との対談をセッティングしていたのですが,この対談を読んで,考えさせられる点がたくさんありました。

 私は,映画の最初に,主人公が電車から降りた後,「痴漢したでしょ!」と被害者の女子中学生に袖を捕まれて,疑いを晴らすために駅事務室に行った後,警察に連れて行かれ,刑事から「おまえは,もう現行犯逮捕されてんだよ,私人による現行犯逮捕だ!」とすごまれるシーンがあるのですが,そのシーンを観てずっと「これは現行犯逮捕として適法なのだろうか?任意同行したに過ぎないのではないのか?」と気になっていていました。こんなことで悩むのはやはりおかしいのか,こんなことが気になる自分はやはり法的センスがないのかもしれない,司法試験に合格できなかったのも当然かななどと思っていたのですが,対談の冒頭で,周防監督がこのシーンで現行犯逮捕の適法性を問題にしているのを読んで,自分が感じたのと同じことを監督が意図していたことが判り,非常にうれしく,ほっとしました。

 また,対談では,供述調書のことが取り上げられています。私も刑事関係で仕事をしていたことがあり,かねがね,供述調書がどうしてああいう独特の文体なのだろうかと疑問に思っていました。あれは,決して被疑者が供述したことを録取したものではなく,あくまでも取調官の作文に被疑者が同意したという書面でしかないとずっと思っていました。供述調書というのは,本当に独特の警察文学というジャンルに区別されてもいいようなものですが,どうして,このような一人称の独特の文体になっているかということが対談で明らかになり,その歴史を知らされて唖然としました。そうか,律令の世から,綿々と続く伝統なのかと。

 それにしても,あの供述調書は本当に危険なものだと思います。私が読んだことのある強制わいせつ事件の員面調書では,女性器や男性器の俗称(テレビ番組で,お笑いタレントが口にすると,ピィーという音声がかぶせられる言葉です)などはわざわざ改行のうえ,大きく書かれてあったのですが,これはどういうことなのでしょうか。裁判官が犯罪事実を認定するうえで検索しやすいようにわざとそうしてあるようなのですが,これは明らかに予断と偏見を与える書き方なのではないのかな,これは普通のことなのか,妙だなと思ったことがあります。

 また,周防監督がこの作品を作ろうと思い立ったきっかけになった事件を題材にしたノンフィクションの矢田部孝司さんの「お父さんはやっていない」(太田出版)も読みました。こちらは,痴漢冤罪で実際に逮捕・勾留され地裁で有罪判決を受け,高裁でようやく無罪判決を勝ち取った方が書かれた本で,電車の中で読み出して一気に読んでしまいました。このようなことがまかり通る現実があるとすれば,わが国の司法は本当に恥ずべきものであると思います。裁判員制度を熱心にアピールするのもよいですが,なによりもこのような冤罪事件がどうして起こるのか,どうやったら防げるのかを真剣に考えなければならないと思います。この本には,痴漢冤罪に苦しむ筆者の幼い子どもたちが裁判官に宛てて書いた手紙がそのまま収録されているのですが,それを読んで私は電車の中でも涙をこらえることができませんでした。

 この本の中で,筆者が弁護人から読むように薦められ,勾留中に差し入れて貰った本として紹介されていた大野正男・渡部保男著「刑事裁判の光と陰」(有斐閣双書)も図書館で借りてきて読んでみました。この本も有罪率99.9パーセントのわが国の刑事司法の問題点を鋭く指摘したものなのですが,なにより私が驚いたのは,そこに書かれてある内容よりも,この本が昭和60年に出版されたものだということについてです。今からもう20年も前に出版されたこの本が指摘することは,「それでもボクはやっていない」に描かれた問題点とまったく同様なのです。ということは,わが国の刑事司法は,20年の間,何ら進歩を遂げていないということなのではないでしょうか。この本の最終章には,わが国の刑事司法に対する処方箋が示されています。そこには,取調状況の可視化や録音や陪審員制度の導入,身柄司法となっている保釈の運用改善,代用監獄の廃止など,現在,ようやく動き出した司法改革のメニューがずらりと並んでいました。これにはかなりの衝撃を受けました。20年ですよ,20年。この事実をみると,有為な人材が法曹を目指さなくなる理由も判る気がします。この変革の現代に,20年前から同じ問題点を指摘され続けている業界がどこにあるでしょうか。こんな化石のような世界で,古いお経のような法文を読んで,10年も20年も相も変わらぬ仕事をするなんてまっぴらだと思うのは無理からぬことではないでしょうか。法曹界は一般の社会とは違う時間が流れていると思わざるを得ません。まあ,裁判員制度の導入までに5年もかけようというのもかなり世間の常識,改革のスピードから相当ずれていると思いますが,それでもこの法曹界ではトップスピードなのでしょうね。

 続いて,江川紹子著「冤罪の構図」(現代教養文庫)を図書館で借りて読みました。これも昭和60年に出たものですが,まったく色あせていません。刑事司法は,たて書きからよこ書きに変わった程度で,その運用実態はほとんど変わっていないのかなと絶望的な気持ちになりました。

 私は,裁判員制度に対しては消極的な考えを持っていたのですが,最近,少し考えが変わってきました。ひょっとすると,裁判員制度は,刑事裁判に革命を起こすかも知れないと考えるようになったからです。毎日毎日,来る日も来る日も被告人に対して「他人の物を盗ってはいけません。人を傷つけてはいけません」と言い続け,時にはタレントの歌まで引用して説教している裁判官の中に,ごく普通の市井の人々がやってくるのです。刑事裁判官が見えないこと,気が付かないことをそうした人々が気付くかもしれない。官舎と役所の往復で暮らす裁判官とは違う視線で,事件をみることができるかもしれない。自分が被告人という立場に立つかもしれない市民が法壇に上がることは画期的なことです。ひょっとしたら,裁判員になった人で警察の取調べを受けた人がいるかもしれない。あるいは犯罪の被害に遭った人がいるかもしれない。自分と同じ立場の人によって裁かれるということは実に刑事裁判にはかりしれない変革をもたらす可能性があります。

 ただ,気になるのは裁判員制度の広報の基本姿勢と,世論調査の結果です。広報では,裁判員の仕事はだれでもできる簡単なのもの,裁判員の負担はできるだけ軽くします,というような点に力点が置かれているように思います。しかし,私は,これはまったく間違っている,ミスリーディングなプロパガンダではないかと思います。そんな簡単な仕事を裁判官はやっているんですか,そんな簡単なら裁判官だけでやればいいじゃないですかと一般の市民は思わないでしょうか。それに,殺人や強盗致傷など重大な犯罪で起訴されている被告人にとってみれば,そんな簡単な気持ちで裁判員に裁かれてはたまったものではないと思います。事実認定は,何冊も専門書が出ているくらい難しいものであり,その事実認定のために裁判官は日夜,苦しんでいるのではありませんか。それに,死刑を含むような重大な事件の事実認定を2,3日の公判審理で簡単に行って,評決をするなんて,自分には恐ろしくてとてもできないというのが本心です。もし間違っていたらどうしようと思い悩むでしょうし,評決のあと,そのまま平穏な気持ちで普通の生活になどとても戻れないと思います。簡単だ,負担を少なくしますという広報の裏には,「裁判員はお飾りですよ」「判らなければ,裁判官がちゃんと教えてあげますよ」「まあ,刑事司法に参加して良識ある市民(citizen)としての自覚をもってくださいよ」というような本音が透けて見えるのは私だけでしょうか。もし,そうなってしまっては,刑事司法は今よりもずっとずっと絶望的なものになってしまうでしょう。

 私が裁判員制度に期待するのは,刑事司法の民主化です。自分も裁かれる立場に立つかもしれない普通の人々が加わることによって,刑事司法は変わるかもしれない。しかし,刑事司法の現実を変えるのは,並大抵のことではありません。だってこれまで20年以上も変わっていないのですから。だから,裁判員の仕事は,本当は大変なはずです。刑事司法の常識からすれば的はずれなことであっても,自分の考えを堂々と裁判官に向かって主張し,時には議論をしなければならない。しかも,法律に関してはまったくの素人であるのに・・・。そして,裁判員の仕事が終われば,それぞれが裁判とは無縁のふつうの市民生活が待っているのに・・・。

 本当の意味での裁判員の仕事は,けっして平坦な道ではなく,むしろ茨の道ではないかと思います。裁判員の仕事は簡単ですよ,事実認定は誰にもできますよ,負担はできるだけ少なくしますよというのは間違っていると思います。裁判員の仕事を殊更に簡単なもの,負担にならないものと広報する背景には,裁判員にあまり華々しく活躍してほしくない法曹界の本音が隠れているとみて間違いと思います。そりゃあ,公判廷でおとなしく座っていて,評議の席でも一言,二言,感想を言って,あとは裁判官のリードのままに,良識ある市民として無難な発言をしていれば,裁判員の仕事はごく「簡単で」「負担も少ない」ものになるでしょう。しかし,それが本当の意味での国民の司法参加といえるのでしょうか。私はそうは思いません。

 裁判員の仕事は簡単であるはずがない。事実認定はプロの裁判官でも思い悩む難しいものです。供述調書と被告人の公判廷での言い分,どちらが信用できるか判断するのは大変です。被告人も警察官も時折,嘘をいいます。証人は知らず知らずのうちに自分の見たことと見たかったことを混同して証言します。そこから事実を見極めるのはたやすいことはでないと思います。しかも,その事実は今,目の前で裁かれている被告人を死刑にするかもしれない事実なのです。また,裁判官と違う意見を言うのは勇気がいります。ましてや議論することになれば,なおのことです。そのエネルギーは相当なものです。裁判官という人たちは,東大や京大の法学部を卒業し,日本で最難関である司法試験に合格した超エリートです。議論で負けたことなどなく,ましてや自分の判断にケチをつけられることなど一度もなかった人たちです。いくら優しそうな顔をしていても,そういう人たちを相手に議論をするのは,市井の人にとってどれほどのエネルギーを要するか,本当に大変だと思います。被告人を有罪にした後は気になるのは当然です。毎日,仕事でそうした被告人を相手にしている職業裁判官ではないのですから。ましてや死刑判決なら一生,忘れられないと思います。

 こうした大変さ,気苦労,負担を覚悟して,しかし,それでも,裁判員制度は必要だ,やはり自分たちの仲間のことは自分たちで裁こうという意識が国民が持つことが大切なのです。なぜならば無辜の人が間違って罰せられることのない裁判を実現するためには,いろいろな人がいろいろな角度から事実を観ることが必要だからです。

 こうした裁判を実現するため,是非,皆さんの助けが必要なのです。皆さんは今,裁判とは無縁の生活を送っておられます。このような裁判に関わることは煩わしいことかも知れません。しかし,もしかしたら,あなたやあなたの家族,親戚,友人が被告人として裁判所で裁きを受けることになるかも知れない。そして,それはひょっとしたら無実の罪で裁きを受けることになるかも知れない。それを救い出せるのは裁判官だけではありません。あなたもその力になれるのです。どうか,しばらくの間,この仕事を手伝ってください。

 こういうふうに広報ができないものでしょうか。裁判員の仕事や負担を必要以上に軽いものだと宣伝することは,この制度にとってマイナスにしかならないと思います。

 裁判官ネットワークの調査では,ハワイ州の陪審員たちは実際に陪審員として仕事をするまではその負担を煩わしく感じていたが,陪審員として評決をした後,多くの人は自分の仕事を誇りに思っているということですが,それは,陪審員の仕事が簡単であったからではなく,むしろ非常に重要で困難な仕事を立派にやり遂げたという思いがあるからではないでしょうか。

 もし,裁判員が裁判官と一緒に公判に臨み,裁判官と一緒に評議をしたとしても,その負担を軽くするため,裁判所や裁判官がお膳立てをして,さっさと仕事が済んだとすれば,私は裁判員が,裁判員として司法に関与できてよかったというような気持ちをもつことはないだろうと思います。結局,裁判官がほとんどなんでも決めていて,自分たちは何のために長時間,あんな法壇の上に座らされたのか判らない,評議ではよく判らないことだらけだし,調書は難しいことがいっぱい書いてあって読む気にもなれない。質問したいことがあったけど,なにか聴くと時間がかかりそうだから何も言わないでいた。もう二度とごめんだということになると思います。

 刑事司法の現実や過去の冤罪事件などを見せて,こうしたことがないように皆さんにはしっかり事件に関わって欲しいのですというような姿勢での広報が,裁判員制度を定着させ,わが国の刑事司法を輝かせるためには是非,必要だと思うのですが,どうでしょうか。

 もっとも,最高裁はわが国の刑事裁判にはまったく問題がなく,刑事裁判を改革するために裁判員制度を導入するのではないという立場ですから,私の考えるような広報は絶対になされないでしょう。そして,世論を反映して,負担が極端に軽減され,裁判員制度は強制「集団傍聴」制度と化し,陪審法と同様に停止され,わが国の刑事司法は永久不滅のまま私たちの子どもや孫の世代に伝えられるのでしょうか。

(平成19年4月)