● 少年非行と家庭裁判所の原点 
柄夛貞介(サポーター,元熊本家庭裁判所所長)

冒頭挨拶
 皆さん今日は。ただ今ご紹介いただきました柄夛です。まずは、熊本少年友の会の輝かしい10周年を心からお祝い申し上げます。
 また、このような晴れがましい式典に講師としてお招きいただきましたことは、私にとりまして大変名誉なことであり、このような機会を与えてくださいました皆様方に厚くお礼を申し上げる次第です。
 さて、私は、35年弱の裁判官生活を、この熊本家裁を最後の任地として依願退官いたしました。そういう意味で、この熊本は、私にとって忘れ得ぬ大切な想い出の土地なのですが、もう一つ思い入れがありますのは、まだ、駆け出しの判事補時代に担当した少年事件をもう一度経験してみたいと思い、退官する最後の半年ほど、少年の身柄事件の審判を30パーセントだけ引き受けて、心を揺すぶられるような体験をさせていただいたことです。その中で、最も印象に残った事件は、当時中学2年の女子の虞犯事件でした。家出を繰り返し、その間シンナー吸引や援助交際をし、自転車を乗り逃げしたことで警察に捕まり、引き取りに来た母と帰宅途中、母の手を振り切って逃走し、そのまま1か月近く家出状態を続け、虞犯で観護措置を執られたという事件でした。この件では、友の会会長のM先生と友の会の会員であるS先生、Y先生の3人を付添人に選任した記憶なのです。本当にお三方は献身的に活動してくださり、鑑別所は勿論、試験観察決定後の調査官と少年の面接場面にも毎回のように足を運ばれ、経過は順調で、結局短期の保護観察で終局できた事件でした。特に女性のお二人の先生は、母子関係に問題ありと考えられたのだろうと思いますが、家庭訪問のうえ母と面接し、母の愚痴や思いを丁寧に聞き取り、その中で意味のある母の言葉を少年に伝えるなどして双方の架け橋役を務め、母子関係改善に貢献されていたことがとても印象的でした。こんなことで私も友の会のファンになりました。こういう中身の濃い素晴らしい活動を今日まで続けてこられた皆様の10周年は、まさに記念すべきものです。

 もう一つ、ここに来る前に、M会長にお願いし、あらかじめ、友の会通信のバックナンバーを送っていただき、1号から20号まで一通り目を通してきました。沢山の心熱き人々、様々の職種の人が手をつなぎ、経験と知識と感動を共有し合い、年々深く、広くたくましく成長している様が感じられました。創刊号には、前熊本県知事のC先生が友の会広報部副部長という肩書きで創立総会の模様を報告しているのも面白いと思いました。それによりますと、創立総会当時の会員数は、232名だったようですが、現在は530名の会員を擁しているということであり、それだけみても10年の歩みの壮大さが分かります。内容的には、どの記事も少年に対する愛の感じられる素晴らしいものですが、特に「初めての付添人活動」など「付添人活動」に関する記事や、補導委託先の見学記などは、少年の心に寄り添い、その健全な成長にかかわろうとする会員の情熱やら、少年の自由、自立を認めながらも、まず家族として抱擁し、その一員としての労働の役割を与え、自信と自己肯定感を醸成しする中で立ち直りのきっかけをつかませようとするもので、少年法の目指す理念に沿った正しい実践ぶりが伺われるものでした。友の会の生みの親ともいうべき元熊本家裁所長の若林昌子先生から最初に送られた言葉、「できることから始めよう、千里の道も一歩から」という標語は、適切なものですが、現在の熊本少年友の会は、もう何百里も前進し、全国の友の会の中でも指導的な地位を占める巨大な会になり、会員の皆様も精神的成長され、ぼつぼつ標語も代える時期に来ているのではないか思う次第です。

 さて、長い、前置きで、はこのくらいにして、本題に入りたいと思います。

1 最近の少年犯罪と世論の動向
(1)昔も今も、社会を震撼させる少年事件が多々報じられています。最近では、18歳の少年が、殺すのは誰でも良かったといって、妻子ある岡山県職員をプラットホームから、進行してくる電車の前に突き落とし殺害した事件、少し前では、タリウムを長期に亘って母親に摂取させ母を死の淵に追い込んだ女の子、学校に行けと父親に叱責されて自宅に放火し、幼い妹を焼死させ、父母を重症に追い込んだ少年、平成12年に私が名古屋から熊本に転勤してきたときも、名古屋市内の中学生同士による5000万円恐喝事件が連日マスコミで報じられ、西鉄バスジャック事件が起こった直後でした。 榊原聖人のあの猟奇的な事件からもさまざまな少年犯罪が耳目を集め、マスコミは、少年による重大犯罪が増加しているかのようなキャンペーンを行い、いろんな評論家が、心の闇の原因分析をしたりしましたが、その結果、世論や為政者の選択した対策は、年少の少年に刑事罰を与え、警察官の権限を強化する、いわゆる厳しく罰する方向での少年法改正だったことは皆さん良くご承知の通りです。しかし、このような政策決定が本当に科学的で、人間理解に基づいた正しい選択なのかは絶えず問われ続けなければならないと思います。特に、それまでの少年法の理念である保護主義に基づいた少年に対する家裁の処遇が単に少年に甘い効果的ではない処遇であったのかが、十分な検証がなされないまま、方向転換がなされたような印象を私は受けています。

(2) 統計から見た少年法改正の合理性
 まず、凶悪化ですが、東京少年友の会の前会長の日野原先生は、折に触れ少年非行は、決して凶悪化していないことを強調されています。
 戦後の少年非行には、三つのピークがあります。昭和26年、そして昭和39年 それに昭和58年から昭和63年まで の三つですが、その増減の本当の原因がどこにあるかは、非行のグラフに少年人口を重ね合わせると一目瞭然です。すなわち、少年の人口が増え始めると非行も増加し、少年人口が減り始めると非行も減り始めるというということで、少年人口と関係なく非行だけが増加するということはこれまでもなかったのです。また、凶悪事件といわれる少年による殺人、放火、強盗、強姦事件は、昭和34年の8213件をピークに減少し、平成8年には1711件となっており、殺人事件は、昭和36年の382件から最近は50件程度まで減少しています。14歳未満の触法少年の凶悪事件についても同様な傾向が明確であり、昭和37年の750人をピークに減少し、昭和57年に465人と第2のピークを迎えた後はやはり減少を続け、平成15年には、212人と3分の1以下になっています。この実証的な統計から見ても、少なくとも事件増や、凶悪化を理由とする少年法改正は見当違いといえます。家庭裁判所を中心としたこれまでの少年非行対策は成功しているのです。

(3) 子供達の心のやみは深くなっていないのか
 ただ、凶悪事件を起こす少年が減少傾向にあるからといって、子供達の心のやみが深くなっていないとはいえません。確かに識者が良く指摘するように、子供達の身近な環境から自然が急速に失われていっていること、家庭の少子化、個室化などにより、家族との交流が希薄となり、地域、学校に期待されている社会化の機能も低下しているため、人と人との生身の付きあい、せめぎあいの中で人間関係を作る能力や欲望を制御する自我が十分育たないままに成長する。その結果、人と密接につきあうことで自分が傷つくことや、他の人を傷つけることを恐れ、友達と深く交流することに臆病になる。その上、世の中には、欲望を刺激する出版物や商品が溢れかえる一方、ケータイ、ビデオ、ゲームソフトなどの1T機器との過剰な接触にさらされる結果、ファンタジーや仮想現実の世界で欲望を肥大化させる子供が出てきやすい環境が一般的にできていることは指摘されなければなりません。

(4) 少年非行に関する画期的な実証的研究
 ところで少年非行の原因分析、処遇のあり方に関しては、既に画期的な実証的研究がなされています。2000年から2001年にかけて、最高裁家庭局と家庭裁判所調査官研修所が主体となり、動機の良くわからない最近の殺人等の重大少年犯罪15例を取り上げての実証的な共同研究が、ベテラン家裁調査官、保護観察官等矯正関係者、学校教諭、学識経験者ら16人により行われました。
 その結果、少年は大きく次の3つのタイプ((1)幼少期から問題行動を頻発していたタイプ(2)表面上は問題を感じさせることの無かったタイプ(3)思春期になって大きな挫折を体験したタイプ)に分けられていますが、どの少年にも共通してみられる人格的特徴や行動傾向として、主に次の5点が挙げられています。
(1) まず、事件直前に深い挫折感を抱いたり、追いつめられた心境となっていたということです。
 例えば、学校でいじめられ続けていた。スポーツ特待生だったのに些細な事件を起こして退学になったなどです。
 少年を追いつめ、いじめた相手を殺したように原因がはっきりしている場合も、誰でもいいから殺したかったというような動機の漠然としている場合も、その内容や程度は、少年が主観的に作り上げている部分が少なくなく、視野狭窄に陥り、挫折によって自分の存在が維持できないという心理状態になっていたということです。それは、重大事件を犯す前に、10事例中7事例において、自殺未遂や周囲に自殺を相談するなど、自殺願蒙があったとされていることです。つまり、死を考えるほどに追いつめられ、自殺未遂を敢行した後では、自分の命と人の命を奪うことのハードルがぐっと低くなったのではないかと窺われることです。
(2) 二つめは、現実的な問題解決能力の乏しさです。
 少年の知能には、殆ど問題がなく、学校のテストはできるのに、日常生活の中で起きる様々な問題を解決する能力が低いという特徴があることです。
(3) 三つ目は、自分の気持ちすら分からない感覚を持っているということです。
 残虐な犯行の手口からすると共感性が極端に乏しいのではないかと見ていくと、他人の痛みが分からないというだけではなく、自分の気持ちが分からないとか、自分の気持ちを言葉にして表現することができないという共通した特徴がみらるということです。それでは、何故自分の気持ちも分からなくなっているのかということですが、
 いくつかの事例では、幼い頃から虐待(特に父親による長期間の性的虐待)や体罰などの辛い体験を受けて心的外傷を負っており、余りに辛いため、そのつらさを感じないようにしたり、意識しないようにする自己保存本能が働き、いわば自分の感情の半分を壁の向こう側に切り離したり、元々ないものとして押さえ込んだりすることがあり、このような体験を繰り返していると、人としての情緒が育たず、自分がどういう感情を持っているのかさえも自覚できなくなるというのです。これを専門用語では「解離」とか「人格障害疑似人格」とかいうようです。こういう心理にあると、些細な刺激によって、抑え込んだ感情が爆発的に再燃することのあることが特徴とのことです。
(4) 四つ目は、自己イメージの悪さです。
 少年に共通していたのは、物心ついた頃から「自分はダメな人間」という観念が強かったり、常に劣等感を抱いたりしていたことです。このため、少年は、社会に脅威を感じ、絶えず攻撃されるのではないかという不安を抱き、常に身構え、率直な自己表現を控え、表面的に調子を合わせ、その分うっ屈した攻撃感情をため込んでいったと考えられます
(5) 五つ目は、男らしさイコール攻撃性という歪んだ形で男性性のイメージを持っており、しかも、それは、現実の人間関係から学んだものではなく、暴力をテーマとするマンガや映画などで誇張された虚構の世界に男性性を求めたと考えられるということです。しかし、暴力的、攻撃的空想にのめり込む少年はひどいいじめや家族関係による傷つきなどの外傷体験を有しているものが大部分で、現実世界では対人関係が持てず、弱くて空虚な自分を様々な場面で思い知らされるため、現実から遊離した空想の世界で攻撃的なものにのめり込むことでのみ、劣等感、弱小感を払拭し、自己イメージを肥大させて万能感を得ようとするするところがあるということです。だから、バーチャルな刺激そのものが原因になっているというよりも少年の現実感覚が曖昧で、現実世界での存在感や生きている手応えなど現実世界につなぎ止めるものがなくなったとき、空想が現実を覆い尽くし、殺人に及んでしまったという解釈が正鵠を得ているようです。
 しかし、3つのどのタイプからも浮かび上がってきた親の特徴というのは、大人になりきれていない親の姿、特に父親の姿でした。(1)自分の感情を子供に直にぶっつける自分本位の親、(2)家族間の緊張から逃げてコミュニケーションを避けている無責任な親、(3)自分を満足させているときだけ子供を可愛がる自己中心的な親などです。こんな親だったらどんな子供でも殺人を犯すというわけではないですが、大人になりきれない親は、子供が殺人に至るまでに発するいろいろな問題行動に適切に対処することが、まずできないのです。様々な問題行動は、重大事件の前駆的予兆であり、子供からのSOSと捕らえ、子供が心理的に追いつめられ苦しんでいるのではないかと洞察し、共感しうる能力を持ち、行動の背後にある子供の気持ちを理解し、寄り添う姿勢が必要なのですが、これが全くできていない親の姿でした。
 しかし、このような非行を犯す少年に対し、処罰を重くする方向で対処すべきだとの根強い世論はいつの時代でも、どの国でもあり、特に昔はひどかったのです。

2 家庭裁判所の原点
 ここで、少年法と家庭裁判所の原点と生い立ちを確認しておきたいと思います。
(1)少年法以前の社会では、子供も大人と同じ刑罰を受けていました。「厳しい罰を与えれば、人はそれに懲りて犯罪を犯さなくなる。」と当時の人は無邪気に思っていました。パンを盗んで長年強制労働させられるレ、ミゼラブルの「ジャンバルシャン」や愛しい人に会いたい一心で放火し、火あぶりの刑に処せられた「八百屋お七」は満16歳位です。しかし、資本主義が発展し、厳しい封建的な人間関係の残っていた農村が分解し、匿名性が高く、貧富の差が激しい社会に移るに従い、一度罪を犯した子供達は、大人と同じ刑務所に入れられ、一時的には社会から隔離されることは間違いありませんが、刑務所が犯罪者養成学校となったうえ、刑務所を出た後一般社会に受け入れてもらえないため、犯罪者集団の中でしか生きられず、犯罪者を固定してしまうことにもなっていました。こうした事態に対し、一八世紀以降のヨーロッパでは、慈善事業として、犯罪を犯した子供達を劣悪な生活環境から切り離し、教育や職業技術を与えるなどの活動を進め、これだけでも立ち直る子供達の出てくることを知るようになっていきました。しかし、こういう慈善事業をする人に対しても、当時は子供を甘やかしていると非難されたのです。

(2)ところで、日本の家庭裁判所の原型となった少年裁判所が世界で初めて誕生したのは、ヨーロッパではなく、一九世紀末のアメリカ合衆国シカゴににおいてでした。アルカポネらのギャングやマフィヤの全盛を誇ったシカゴで何故このような進歩的な制度が誕生したかというのは、はっきりしたことは分かりませんが、少年が続々犯罪者予備軍になることがあったからかも知れません。ただ、いえることは、少年法、少年裁判所というシステムも当時の伝統的な裁判所制度や法律の体系から見ると異端であり、ヨーロッパのような伝統の強固な社会では、慈善事業として子供の更正をはかる運動を展開していた人々が、「何故、大人と子供を区別して裁判しなければならないのだ」「子供を甘やかしているのではないか」という伝統的、保守的な批判や世論を打ち破って少年裁判所を作るまでの社会的な勢力にはなり得なかったのだと思われます。これに対し、当時のアメリカは新世界であり、アメリカを目指した多くの移民は、貧困からの脱出を目指してはいましたが、それだけではなく、アメリカの独立宣言に見られるような、多くの民主主義思想家、社会改良運動家などが含まれ、伝統の枠にとらわれない新しい社会の創設を模索していたということがあったと思われます。少年法や少年裁判所の誕生には市民社会や民主主義社会の背景を必要としたということです。日本でも、民主的な現憲法が成立しなければ、この家庭裁判所は絶対に成立しなかったのです。

(3)少年裁判所の成長と市民参加
 少年法や少年裁判所が誕生した頃、それは実験的な試みに過ぎず、手本になる国も制度も法律も何もありませんでした。あるのは、非行や犯罪を犯した少年を反省させるとともに、やった結果ではなく、裁判によってその後どのように生きていくのかを重視し、成長するきっかけをつかみとらせ、再び市民社会の中で生き生きと活動していくことを目指すという理念でした。当時のアメリカは、社会制度が柔軟であったため比較的新制度が生まれやすい社会ではありましたが、結果を出さなければすぐに廃止してしまう社会でもありました。そして結果を出すためには、どうしても「ひと」、「もの」、「かね」という三つの要素が不可欠です。しかし、誕生したてのの少年裁判所に、高いコストを社会に支払わせるだけの社会的な合意はありませんでした。そして、非行少年には、具体的に生きる技術すなわち職業訓練などを施さなければ、やはり犯罪や非行に戻ってしまうことも理解されていました。この難問を少年裁判所は、どう乗り越えていったのでしょうか。
 ここでシカゴの少年裁判所に、1人の靴屋さんが協力を申し出ました。社会で更正しょうとする子供達を預かり、保護し、靴屋の技術を教えようというのです。この靴屋さんの善意は、多くの市民から共感を得、その後続々と職業訓練を申し出る市民や、家庭的に恵まれない子供を預かる家族が増えていき、高い社会的コストの問題を解決していったのです。この靴屋さんの後に続く、英雄ではない無名の市民の隊列こそ、市民が制度や歴史を作るということを証明しているのではないでしょうか。このような市民は、日本でいえば、補導委託を引き受けてくださる方々や熊本少年友の会の皆様が該当することになるでしょう。また、日本でも草創期の家庭裁判所を作った裁判官達は、その予算の確保に毎年大変な努力を傾け、苦悩したのです。

(4)家庭裁判所と経験科学の合体
 少年裁判所と市民の出会いについては、もう一つの歴史的な出会いがあります。
 リッチモンドというケースワークの開拓者として有名な女性です。この人は、少年裁判所が何をすべきかということに、深く影響を与えました。現行少年法9条には、「家庭裁判所は、なるべく、少年、保護者又は関係人の行状、経歴、環境等について、医学、心理学、教育学、社会学その他の専門的智識特に少年鑑別所の鑑別の結果を活用して、調査を行うよう努めなればならない。」という調査の基本方針を規定していますが、これがリッチモンドのケースワークの思想であり、これを日本の家庭裁判所は、家庭裁判所調査官という専門職種に結晶させているのです。
 以上の点は、井上博道という元家庭裁判所調査官の著書「裁かれる少年達」の本に詳細に書いてありますので、興味のある人は読んでみてください。
 アメリカそしてその影響受けた各国の少年裁判所、その一つとしての日本の家庭裁判所は、多くの市民の協力を得ながら、ケースワークという経験科学の裏付けのある援助技術を駆使し、国親思想と保護主義の二つの理念に導かれ、実践を通して鍛えられ、成長・発展してきた裁判所なのです。私が言いたいのは、日本の少年法と家庭裁判所は、世界の最先端を行く、宝なのだということです。そして、皆さんの存在は、その宝の一部であり、家裁の機能を発揮する重要な役割を担っているということです。

3 被害者の地位と修復的司法について
 ただ、少年法やそれを運用していた私達家裁の従来の関係者に弱い点があったとすれば、それは、犯罪や非行の被害者・遺族の存在が、刑事司法、少年審判手続においては殆ど「無視されてきた」或いは「忘れられてきた」という点です。何故そうなったかというと、その原因は、近代憲法や法律が、被害者を忘れるようにできており、それを運用する法律家の頭がそうなっていたからです。刑法や刑事訴訟法は、犯罪を法益侵害ととらえ、国家権力が、刑罰という形で市民の自由や人権を奪うについてその濫用を防止するという観点に重点が置かれてできあがっており、ある人がある人を殺しても、その被害者は、具体的なAさんではなく、抽象的な人の生命が侵害されたとしか理解しないのです。しかし、個別の犯罪については常に生々しい具体的な個人の被害が存在します。例えば、強姦致傷事件では、被害者は、強い精神的、肉体的ダメージを受けるとともに、治療費その他の財産的損害を受ける第一次被害に続いて、警察の捜査・取調べに振り回され、公判段階では証人としての地位しか与えられず、かえって加害者・被告人側の弁護士から微に入り細に入り徹底的に尋問される第2次被害を受け、更にその後、結婚や職場など様々な場面で、精神的・社会的支障を来す第3次被害を受けると言うことがあります。これに対し、たいていの事件は、加害者からきちんとした謝罪や賠償を受けることもなく、従前までは、加害者が誰で、どういう境遇のどういう人物か、刑事手続きの進行や結果はどうなっているのかについて、間接的に知ることはあっても、制度上の情報ルートは存在せず、被害者は何も知らされない状況にありました。従来は、情報を少しでも得て、加害者に償いを求めようとすると、被害者は、加害者を相手に民事の損害賠償の訴訟を起こすしかなかったのです。
 しかし、被害者・遺族にこれまでどおり無視された状態に甘んじなさいというのは、もはや許されないでしょう。非行少年の心からの反省を引き出し、立ち直りのためにも、被害者・遺族がどんな苦痛や苦しみを味わい、どんな被害感情を持っているかを知ることは有益な面があるでしょう。こうした有益な面を引き出しつつ、被害者・遺族の感情も満足させるような加害者・被害者双方にとって調和のとれたシステムの構築は大切なものがあるといえます。
 現在の少年法では、平成12年の改正で、被害者に記録の閲覧・謄写、意見聴取、審判結果の通知の制度ができています。これは、明らかな被害者の知る権利を保障し、被害者の視座を少年審判手続に組み込む、意味のある改正であったと思います。 そして、更にほどなく改正刑事訴訟法の被害者参加の刑事裁判手続が施行されることと歩調を合わせ、先月6月11日には、少年審判非公開の大原則を大幅にゆるめ、被害者や遺族が審判傍聴することを認めることなどを内容とする少年法改正法が衆議院で決議されました。現在でも例外的に審判官の裁量により、被害者の審判傍聴が認められているケースがあるようです。しかし、被害者・遺族の被害感情は、諸刃の剣の危険性があります。最近の日弁連の調査によると、少年審判での意見陳述を認められた被害者・遺族が、審判廷で少年に物を投げつけ、「悪魔、あなたを、死ぬまで許さない」という怒りを少年にぶつけ、少年院で自殺を図った少年もでており、「閉廷後ネットに、少年の実名や調書の内容、攻撃的な内容を書き込んだ」被害者・遺族もいたとのことです。重大事件を犯す殆どの少年は、先ほど述べたように生育過程で心が深く傷つく体験を重ねており、親や大人への不信、自己否定、感情表現の稚拙さその他多くの負因を背負っています。 審判廷では、少年は素直な自分を出せず、傍聴した被害者は、聞きたい少年の反省の弁を聞けず、整理されない未熟な言葉を直接聞くことで、かえって怒りを増幅させ、苦しみを深めてしまうこともあると思います。  非行少年に心からなる反省自覚を促そうという関係者の努力の結晶である審判の場が、かえって、少年に自暴自棄の思いや攻撃的な態度を引き出す場となるようでは、意味がありません。
 私は、被害者に少年審判手続に参加を認める制度を導入するとしても、被害者と少年が共に相まみえることに合意している場合か、一定の条件を満たす場合に限って、試験観察や審判期日の間、或いは少年と被害者の状況によっては、少年院に送致された後にでも、被害者に被害感情を吐露する場を提供しつつ、少年が自らその犯した罪を自覚謝罪し、被害者の心の癒しを図りながら、加害少年の社会復帰を目的とする、注意深く配慮された特別な手続を設けるなどの、きめ細かな配慮の元に導入されるべきものではないかと考えています。
 このことをより掘り下げて考える場合は、「修復的司法」の考えが参考になります。
 修復的司法というのは、犯罪を 単なる法の違反、と見るのではなく具体的な被害者と人間関係に対する侵害ととらえ、刑罰ではなく、被害を被った人に対する害悪を今後どう償なっていくのか、人間関係をどう再建するのかという、建設的で未来志向的なものの見方をもった刑事政策ともいうべきものです。
 そしてこの思想は、もともと諸外国の先住民の間で行われていた実践的経験の産物として存在していたのですが、近代法の台頭の中で埋もれてしまい、これが現代においては、修復的司法という形で復活を遂げたと理解されています。
 ドイツでは、1990年の少年裁判所法の改正により「加害者と被害者の和解」が手続き打ちきりの要件ないしは処分の内容となり、これが成人事件にも波及し、1994年に「加害者と被害者の和解」及び損害回復に関する規定が刑法に新設され、修復的司法の観点に基づいた法運用が実際に行われているようです。現在、アメリカでは45以上の州で300を超え、ヨーロッパにおいては900を超える「和解プログラム」が実践され、成人犯罪や重大犯罪のケースについても適用されて、成果を挙げているとの報告もあります。

4 問題解決方法としてのホ・オ・ポノポノとは

 この、修復的司法の理想型として、罪を犯した少年、或いは一般に自分に対し敵対的、非友好的な態度を取る相手方に対しどんな態度で接するか、又、地域で好ましくない事件が起きたとき、どのような問題解決方法があるのかについての一つの例を紹介したいと思います。
(1)昔のホ・オ・ポノポノ
 それは、ポリネシアの島々に昔から伝わり、特にアメリカに統合される前のハワイで行われていた「ホー・オ・ポノポノ」という問題解決方法です。これは、井上孝代という明治学院大学教授の「あの人と和解する。」という本からの紹介ですが、関係者が一堂に会した徹底した話し合いによる解決です。
 例えば、小学生のA君がB君のお金を盗んだとします。するとこの二人を取り巻く、親、学校関係者、友達、近所の人に長老という人望のある人物が一堂に会し、まず、A君がB君に何をしたのかについて長老の司会のもとに真実の追究がなされていくのですが、これは現在の少年審判の非行事実の認定手続と似ています。しかし、次からは全く違う展開となります。即ち、そこに集まった人全部が、A君がしたことについて、自分たちにどういう責任があったのかをそれぞれ話していくわけです。A君の母親は、「家のことにかまけて、A君をほったらかしにし過ぎた。」というと、父親は、「最近夫婦喧嘩が絶えず、子供に悪い影響を与えていた。」と反省する。B君も「お金を取られたのは腹が立つが、A君が貧乏なことをからかった自分にも悪いところがあった・」と胸の内を明かし、近所の人達は、「近所の子供達の様子に無関心すぎ、もうちょっと、気楽にはなせる関係を作ろうとする努力が足りなかった。」というふうに、A君だけを責めるのではなく、皆が自分の責任と考えるものを、長老のリーダシップのもとに総括していくのです。そして、次の第三段階として、次にこうしたことを起こさないためには、自分たちが何をすべきかを1人1人に聞いていくのです。A君の両親は、「自分たちの夫婦関係を良くして、子供にストレスを与えないようにしていきたい。」A君の友達は、「サッカーの好きなA君を地域のサッカークラブに入れるようにやってみる。」などと提案し、A君も集まってくれた人達が自分の気持ちを理解しょうと努力してくれたことに救いを感じ、分かってもらえたと思えたとき心から謝罪する気持ちになり、「1週間に一度B君宅に草刈りに行くと申し出る。」、そして最後に、審判のように、長老が、「何が起こったのか」という事実と「今後皆が何をすることを約束したのか」を別々の紙に書いて、一同の前で読み上げ、その上で「事実を書いた紙」だけを燃やしてしまうのです。この問題解決方法は、癒し、過去の清算及び未来の建設という和解に必要な三つの要素がパーフェクトに含まれています。このような和解の方法は、昔の日本にもあったようで、特に島根の対馬では、戦後間もなくまで行われていたようですが、近代の裁判制度が定着し、効率を優先する競争社会では、およそ成り立たず、消滅してしまいました

(2)現代のホ・オ・ポノポノ(Ho’oponopono)
 ところで、その精神を現代に復活させた人が、ハワイ大学のイハレアカラ・ヒュー・レン博士です。そのお話をする前に、ホ・オ・ポノポノの言葉について簡単に説明しますと、ハワイ語の辞書によると、「幸福になる」「正しい道への導き」「本来の姿に戻す」「浄化」など、沢山の意味があるようですが、愛の想いをとばすことによって、自分とそして側にいない相手をも癒す魔法の意味もあるようです。
 ヒュー・レン博士は、4年間、精神障害による心神喪失などを理由に、不起訴・減刑・無罪になった犯罪者を収容するハワイ州立病院にセラピストとして勤務し、収容者達全員を、誰1人診察することなく癒し、改善したという人です。彼はどうやったかというと、患者のカルテを読み、自分がどのようにしてその人の病気を作り出したのかを理解するために自分の内側を見、そこに感じられる自分の中の内なる存在に働きかけこれを改善するように努めたということですが、その改善の方法は極めて単純な次の4つの言葉を繰り返すだけだったというのです。つまり、ごめんなさい。許してください、愛しています。そして、ありがとう、の言葉です。これは、日本語としてもとても美しい言葉ですが、これらの言葉が心の底まで届くように、何度も何度も繰り返したというのです。
 彼が赴任してくるまでの病棟は、危険なところで、心理学者は月単位で辞めていき、職員も良く病欠で休み、病棟を歩くときは、患者に攻撃されないように壁に背をつけて通る状況だったのが、3か月後には、以前は手足を縛られていた患者達が自由に歩くことを許可され、多量の投薬をしていたは投薬を辞め、退院の見込みのなかった人が退院していったのだというのです。又、職員の常習的欠勤や退職は消え去り、職場に来るのを楽しみ始めたというのです。
 彼によると、すべての命及び存在はすべて繋がっており、自他同然であり、外界に起きている現象、戦争、争い、経済活動、テロリズムなどは、いってみれば、私の内面からの投影である以外は、存在しておらず、問題は彼らに関するものではなく、私に関するものであって、私に責任があり、それを変えるには、私を変えなくてはならないというものです。つまり、私が自分の人生を改善し、誰かを癒したければ、例えそれが精神障害を持った犯罪者であっても、私は、それに責任があり、自分自身を癒すことによって改善できるのだというのです。
 しかし、自分の言動について責任があるというのは理解できますが、自分の思いや認識などあらゆることに自分に責任があるというのは、通常の理解を超えており、ましてやそれを受け入れて実際に生きることはもっと難しい。皆さんもそう考えるでしょう。ただ、これをわかりやすく考えると、例えば、月に行ってみたい、いけるはずだと考える人が相当数いなければ、人が、月に到達することは絶対あり得ない。そうであれば、そう思うかどうかについても責任がある。テロや戦争を事実として認識している自分にもそのような現実をもたらしていることについて、沢山の思いの一部に過ぎなくても責任がある。責任があるという言い方は、自分を責める感じがありますが、そういうことよりも自分のこととして感じ、その部分をホ・オ・ポノポノで幸せな思いに置き換えることができる。そのことによって、「好ましくない経験」に対しても決して無力ではないという理解です。この、ヒュー・レン博士のホ・オ・ポノポノは、国連でも評価され、最近日本でも評価する人が増え始めています。
 そのうちの1人である山内尚子という人が「やさしい魔法ホ・オ・ポノポノ」という本を出していますが、その著書の中で、なおちゃん流「ホ・オ・ポノポノ」実践法というやり方を紹介しています。まず、大切な人を思い浮かべ、その名前を書き、謝りたいこと、感謝したいことを思いつくままに書き込み、最後に「愛しています。」と書いた文章を完成させ、これを何度でも読み返し、気心の知れた人にはその人の前で朗読するという方法のようです。これを実践していたら奇跡と思えるような素晴らしいことが次々と生じてきたと述べています。これは、精神性の高い人が実践するとより効果的だといいますから、皆さんのような方が少年に対し実践したら、大きな効果が現れるのではないかと思います。
結び
 最後に皆さんの行いは、人類のあるべき方向へと歴史を推し進める、理にかなった行動の集積となっていますから、これまでの活動に自信を持ち、更に力強く次の10年、次の1000里に向かって歩を進めていって欲しいとの私の希望を述べさせていただき、私の拙い話を終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。

(平成20年7月3日 熊本市 KKRホテル熊本にて)