● 塔の中から(2)
坂梨喬(福岡家裁)  
 前回,専門家集団が宿命的に排他性を持ってしまうと書いた。今回はもう少し専門性について書いてみたい。

 私事で恐縮であるが,私の妻は難病に掛かってしまい,各地でいろんな病院を転々とした。そこで,医療の専門家であるさまざまな医師や看護士と出会ってきた。そこで感じたのは,医師は自分の専門である知識を駆使して病気を治療しようとするが,病気をみる医師はいるが病人を診る医師は少ないと言うことを感じてきた。治療の困難な病人にとって,病気を少しでも快方に向かわせて貰いたいのはそのとおりであるが,やはり,病人は,とくに,治癒の不可能な難病の病人は,自分の痛みや苦しみに向き合って寄り添って欲しいと言うことを願っている。そんなことをしても直接治療に結びつくわけではなく,医師はカウンセラーではないといわれる。確かにそうあろう,しかし,そこでは,「治療」とは何かが問われていると思われる。私は,データーの上ではこんな痛みが有るはずはない,精神的な物だと切り捨てて立ち去った医師に対して,「つらいねー」といいながら妻の背中を涙しながらさすりつづけていた看護婦さんを忘れることはできない。彼女は「治療」していると私は感じた。

 翻って我々の専門性をみても状況は余り変わらない。われわれは,紛争を当事者と切り離して物化し,自分の専門領域に取り込み,自分の専門的知識・技能で事件を解決しようとする。しかし,紛争は当事者のものである。われわれにとって紛争の「解決」が当事者にとって紛争の「解決」になっているのだろうか。そのような観点がこれからの司法にとっても必要なのではないだろうか。独善的・権力的専門家は自分の「解決」こそが最善であるとして当事者を切り捨ててしまう。私は,専門性を否定するつもりはないし,専門家を否定するつもりはなく,専門家の存在は社会にとって不可欠であると思っている。専門家集団を消滅させることで理想的な社会を造ろうとしたポル・ポト政権が自らが衝撃的な虐殺集団となっていったことは示唆的である。しかし,専門家集団の排他性は集団の閉鎖性となり,集団は独善的となり権力的となる。かつて,読み書きそろばんができるということが社会にとって有用な専門性であると同時に反面それは権力の象徴でもあった。特に,「法律を知っている」という専門家集団は権力的になる危険性は大きい。

 問題は,専門家集団の必要性を肯定しながら,それが排他的・閉鎖的・権力的に流れて行くのをどう阻止するかということであり,そのような安全弁を社会システムとしてどのように構築するかと言うことである。刑事裁判における裁判員制度がそのようなシステムの一つとして設計されていることはいうをまたない。そこで,専門家集団の一員である裁判官と非専門家である一般国民が,その運用において,どのようなせめぎ合いをするのかはこれからの課題である。

 ところで,最近は,裁判員制度のみが大きく喧伝されているが,家庭裁判所における参与員制度についてはほとんど知られていないであろう。もともと,法律上は,家事紛争について裁判をするには,原則として,一般国民からなる参与員の意見を聞かなければならないとされていたのが,長い間,参与員を付すのは例外的な運用になり,あるいは,参与員が一般市民の良識を反映するものではなく,不動産鑑定士や戸籍事務に詳しい元法務省職員や法律に詳しい元裁判所職員が参与員に任命され,専門家である裁判官の専門性をより補完する形で運用され,専門家である裁判官の判断に一般市民の感覚なり良識なりを反映させるという理念を骨抜きにしてきたのである。そして,今度,離婚事件など人事訴訟が家庭裁判所に移管されたとき,再び,参与員が裁判に関与することとされた。その趣旨は,裁判員制度と同質のものである。それ故,そこでどのような運用がなされるのか,これまでのように骨抜きにされた運用がなされるのか見守って行かなければならない。

 裁判員制度や参与員制度を取り入れることに反対の方から,そんなことをすればもはや裁判ではなくなると言われたことがある。それは,強烈な専門家としての自負と責任感に裏打ちされたものであり,考えさせられるものがあるのは確かであるが,現代の問題は,一歩進んで,そのような専門家の自負と責任感だけでは乗り切れなくなっている時代にどのように対処すべきかということであろう。裁判員制度あるいは参与員制度が専門家と一般市民との間の架け橋となって真に民主的で血の通った司法が実現されることが願われる。

(平成16年9月)