● 緊急アピール(意見文)
平成17年8月30日
最高裁判所長官殿
最高裁判所判事殿
裁判官報酬における人事院勧告等の受け入れについて

日本裁判官ネットワーク
コーディネーター
 安原 浩(広島高裁岡山支部)
 伊東武是(神戸地裁姫路支部)
 浅見宣義(大分地裁)
1 慎重な対応を求めます

  人事院は,今月15日に,国会及び内閣に対し,一般職の職員の給与等についての報告及び給与の勧告(以下「本件勧告等」といいます。)を行いました。本件勧告等は,(1) 地域ごとの民間賃金水準の格差を踏まえ,全国共通に適用される俸給表の水準を平均4.8パーセント(中高齢層は更に2パーセント程度)引き下げる,(2) 民間賃金が高い地域には,3パーセントから最大18パーセントまでの地域手当を支給するという重要な内容を含んできます。

  しかしながら,裁判官に上記内容を適用し,裁判官の報酬等に関する法律(以下「報酬法」といいます。)に定める別表の報酬月額を引き下げることは,取り返しのつかない重大な問題を含んでいると考えます。裁判現場では,同僚から同旨の声を多く聞きます。最高裁判所から法務省に法案作成を依頼されることは,問題の大きさに鑑み,慎重な対応が必要と考えます。



2 違憲の疑いについて

  憲法79条6項後段,80条2項後段は,裁判官の身分保障の一つとして,裁判官の報酬の減額ができないことを定めています。本件勧告等を受け入れると,平均4.8パーセント,判事層で試算すると,7パーセントを超える報酬の減額となり,地域手当額を考慮しても,上記各規定に触れると考えるのが素直です。

  国家公務員の給与の減額を提案した平成14年8月8日の人事院の勧告等を受け入れることについては,同年9月4日の最高裁判所裁判官会議で,人事院勧告の完全実施に伴い国家公務員の給与全体が引き下げられるような場合に,裁判官の報酬を同様に引き下げても司法の独立を侵すものではない旨の決議をされています。この決議は,報酬の一律削減を前提にしていたものでしたが,本件勧告等は,地域間で差をつけるのを目的にしていますから,地域手当を含めて考えると,一律削減とは到底いえませんし,削減の程度も前回(2パーセント程度)とは比較にならないほど大きいものです。なお,地域手当は,手当との名称を付していますが,物価や生活費等を直接反映したものではなく,もともと国家公務員の給与を民間の給与の水準に合わせる手段ですから,実質は俸給に当たるのではないかと考えられます。また,本件勧告等で予定される経過措置だけで,違憲の問題を全て解消するのは難しいのではないかと考えます。



3 裁判官制度,司法制度への悪影響について

  そして,本件勧告等を受け入れることは,裁判官制度,司法制度への決定的な悪影響があることを否定できないと考えます。

  まず,現在の裁判官には,全国転勤を経ながら,20年程度で特定の高裁管内に落ち着く人が多いと思われますが,その中でもかなりの部分が東京高裁管内(特に東京)や他高裁管内でも都市の裁判所に配属希望を出しています。この傾向は,本件勧告等を受け入れた場合,拍車がかかることは間違いなく,都市から地方への転勤拒否や退官者の増加も現在以上に生じ得るでしょう。任官希望者にも影響を与えかねません。それらの結果,人的な面で,全国での司法サービス提供に悪影響を与える可能性があると考えます。

  また,行政と異なり,都市と地方で職務の内容に本質的な違いがなく,一方が本省でもう一方との間に指揮命令関係があるといった関係がないにもかかわらず,都市と地方との間に,必要以上の差を設けることは,地方で誇りをもって裁判を行っている裁判官の誇りを傷つけることにもなりかねなません。そして,裁判官の中に,勤務地域によって実質的な報酬の格差を設けることは,現在の報酬の進級制以上に,実質的な進級階段を設けることになり,司法制度改革審議会の「裁判官の報酬の進級制(昇級制)について,現在の報酬の段階の簡素化を含め,その在り方について検討すべきである」という意見書の内容と正反対の方向となります。

  さらに,本件勧告等の受け入れは,今回だけで止まらない可能性が高いと考えられます。平成14年の人事院勧告等は,デフレ状況下の給与の引き下げだけが問題でしたが,本件勧告等は,8月15日の人事院総裁談話に触れられているように,「俸給制度,諸手当制度全般にわたる抜本的な改革」「昭和32年に現在の給与制度が確立して以来,50年振りの大きな改革」であり,裁判官制度の特殊性を考慮せずに,本件勧告等を受け入れれば,人事院が「今後とも必要な見直しを適切に行」う度に,その影響を受けざるを得ないことになります。例えば,都市と地方の民間給与の差が今後さらに大きくなり,人事院がその差を国家公務員に反映すべく,俸給を引き下げ,地域手当のさらなる上積み,細分化の勧告等を行えば,裁判所としても受け入れざるを得なくなるでしょう。その限度は,憲法,法律上全く存在せず,裁判官制度への悪影響は増大します。



4 最高裁判所に検討のための研究会を設置して下さい。

  私達は,国の財政や国民生活一般が大変な時期に,自分たちだけが,憲法等による身分保障をたてに特権的なことを主張するつもりはありません。しかしながら,そもそも,行政官と裁判官は地位,職務が異なっており,憲法,法律上の身分及びその保障に違いがあります。報酬の変更は,裁判官の独立のほか,裁判官制度,司法制度の特徴を十分踏まえたものでなければならないと考えます。従来,裁判官の報酬の変更は,人事院勧告等を受け入れ,報酬法を改正する形で行われてきました。長らく,報酬を増額する方向での人事院勧告等が続いたため,問題が生じないまま経過してきましたが,本件勧告等を契機に,問題意識を深め,あるべき裁判官の報酬制度を検討し,再構築する時期にきたと考えます。その検討は,報酬の減額や停止をする場合の減額や停止の仕方等裁判官にとって不利な内容を含めてのものです。

  このため,本件勧告等を直ちに受け入れるのではなく,将来の裁判官の報酬のあり方及びその変更のあり方を抜本的に検討する研究会を,最高裁判所裁判官会議の議決により,最高裁判所に設置していただきたいと考えます。法案提出権等の問題で,政府との関係をどうするのかの課題が残りますが,まずは司法の立場を明確にする必要があります。裁判官の報酬変更の決定方式について,司法の独自路線をとることは,様々な困難が予想されます。国民の皆さんの理解も是非とも必要です。そのため,法曹三者だけでなく,財政・人事の専門家,有識者,民間人を含めたメンバーが必要と考えます。

   仮に,経過措置等を理由に,本件勧告等を受け入れても,公務員制度を巡る社会の状況を考えれば,将来の裁判官の報酬及びその制度が今後安泰とはとてもいえないのではないでしょうか。身近な安泰を望んで,大きなところで,司法の立場を明確に主張できない位置に,司法自らを追い込んでいくのはいかがなものでしょうか。最終的には国民の皆さんの権利義務に影響することになります。今は,未来を見通した司法の地位づくりのための大事な時期にあると考えます。最高裁長官及び最高裁判事の方々のご見識を心から期待してやみません。                        
以 上
(平成17年8月)