● A記者への手紙 (2001年4月2日)
伊東 武是 (大阪高裁) 
 司法制度改革審議会も,いよいよ大詰めを迎えています。しかし,残された課題の幾つかは大変大きなもので,その一つが裁判官人事だと思っています。4月16日の審議会でこの辺りが取り上げられるとのことですが,これまでほとんど議論できていない分野をたかが半日位でどこまで深められるか心配です。

 2月20日の朝日社説で,「採用と再任だけでなく,日ごろの人事評価や異動,昇進についても改めるべき点は少なくない。最高裁は「人事の透明化を検討したい」と表明してはいるが,一方で予想される問題点をいくつも挙げており,どこまで本気で取り組むつもりか,疑念が残る。」としています。そのとおりです。

 人事権は,最高裁当局にとって最大の武器です。できるだけの抵抗をして,この権限を守り抜きたいと思うことでしょうね。それだけに,審議会が,最高裁の意向を排して,どこまで踏み込んだ答申するか,私などは固唾を呑んで見守っています。

 朝日新聞の2月28日朝刊の37面「組織の傷跡なお残る」「変革期の司法・上」は大変貴重な意見を集め素晴らしい取材をし,現場の空気を見事に切り取っています。特に感心したのは,「一部の人がいまだに差別らしき扱いを受けているのも事実です。思想・信条が直接の理由かというと,そうでもなく,「司法行政に口を出す」「最高裁の方針に批判的である」ことから「組織運営としてやりにくい」ということがあるのではないでしょうか。」とか,「上司と対立しても,裁判所内部で自分の評価が傷つかない領域とそうでない部分を,若い判事補は本能的にかぎ取っている。法律の解釈や証拠の見方でどんどん発言すれば元気のいいやつと評価されるが,憲法や人権問題に踏み込むことはタブーと感じている。」などのところです。

 たしかに,思想・信条による差別があるというのは,ここ最近は正確な言い方ではないかもしれません。主に行政運営の観点から「うるさい奴」「従順でない奴」を人事の上で冷遇しているとみるべきでしょう(しかし、裁判官のこうした行動が深いところで思想と結びついていることは争えません)。

 司法権が独立したところに悲劇があったのではないか,と考えています。司法権が独立し、その自治が認められたために,裁判官が司法行政に携わざるを得なくなりました。行政は,上命下服を求められる世界です。そうでないと,スムーズな運営はできません。裁判所世界で、スムーズな司法行政運営のための必要が、独立のための様々な保障手だてを圧倒し始めました(裁判官会議の形骸化,所長,部総括判事の管理職化など)。

 ヒエラルヒーは次第に強化され,この分野で「裁判官の独立」は死語に近いものとなりました。ヒエラルヒーはどこの官庁にあることですが,他官庁は,外の世界と交渉が盛んで,案外幅広い意見を許容する空気があるのではないかと思います。それがなくなれば,行政が次の時代を切り開いていく大切な眼を奪うことになります。

 裁判所は,不幸なことに,どの官庁よりも閉鎖社会です。他の空気が入り込みにくく、批判を受けにくい世界です。ヒエラルヒーはどこよりも強化され,多様な意見を許容する空気がどんどん薄れてきました。皮肉なことに一番「独立」に反する官の世界となりました。

 私などは,若い頃から,裁判官会議で発言することは,自分の良心のあかしであり,裁判に取り組むことと同じく大事なことだと思ってきました。多数意見になるとは必ずしも思っていませんが,多数決で否決されれば,それはそれで結構なことで,行政運営を妨害しているなどとは考えもしませんでした。少数意見でもこれを発言することは,今は役立たなくても将来のためには,あるいは,こんな考えもあるのだということを他の裁判官に知って貰う意味でも,自分の務めだと思ってきました。

 青法協問題以後,裁判所の空気が暗くなり,裁判官会議でものを言わぬ人が増える中でも,自分を励まし,嫌がられることが分かりつつ,あえて勇気を出して意見を述べてきました。そのため,所長や幹部クラスの人達にはずいぶん冷たい目で見られました。しかし,あくまで内部での意見発表なのです。たいがいは圧倒的多数で否決されました。それでいいのです。私は何も行政を妨害をしたわけではないのです。

 下級裁判所に,裁判だけでなく行政面でも多様な意見があることこそ,健全な証拠ではないでしょうか。行政の統一は,多数決原理と最高裁の最終決定によって決めればよいことです。下級審の段階からー本の意見しかなく,少数意見がないことこそむしろ異常です。

 最近,ある裁判所の刑事部担当裁判官の協議会でこんなことがあったそうです。被害者遺族が遺影を法廷に持ち込むケースが増えてきました。早速,一人の裁判長が,何らかの許可基準を作り,刑事部全体で申し合わせをしようと提案して来たそうです(とかく何か起こるとこういう動きのでるのが最近の裁判所の特徴です)。

 遺影の大きさは何センチ以内で,玄関を入ったときは風呂敷に包み,法廷の何列目に座り,いつ風呂敷を広げ、膝の上にどのように置くか,などと細かな許可基準と許可手続を決めたいというのです。別の裁判官から,そんなことは,個々の裁判部が決めれば良いことで,申し合わせなどは,こと裁判体の訴訟指揮に関することなので,すべきではないとの意見が述べられたそうです。

 結局,申し合わせまではしないということになりましたが,各裁判体が対処する上で,参考となる一つ目安のようなものを作ろうということに落ち着いたそうです。

 このように,司法行政といえども,裁判のあり方,姿勢と関係することは一杯あるのです。個々の裁判官の考えに差があることは当然です。その多様な意見を裁判官会議その他の場で遠慮なく,言い合えることが裁判所世界の自由闊達さであり,裁判官の独立を支える大切な空気だと思います。それを「司法行政に口を出す」「最高裁の方針に批判的である」ことから「組織運営としてやりにくい」として,人事の上で差別することは,結局,裁判所の自由な精神世界を殺すことになるのではないでしょうか。

 ドイツでは,戦後の司法改革では,司法権を独立して完全自治まで認めるべきかどうか,大議論がありましたが,結局,司法権に完全自治を認めないということになりました。司法省の人事・監督権を残したのです。その理由は,司法権に自治権を認めることは,「裁判官相互の従属関係は耐え難いものとなる」と判断したからです(木佐・人間の尊厳と司法権・71頁参照),今,わが国の司法部に起こっている事態を見事に予見しています。

 もう一つ,わが国の不幸は,戦後に政権交代のなかったことです。保守派は常に多数派であり,革新派は常に少数派でした。革新派の発言はいつも政治的とみられ,特に,裁判所の中の革新派は政治的・妨害的とみられて来ました。保守派にはもともとその思想が体制のそれと同一ですから、たいていのことを言っても許されます。裁判官の中で、裁判所に自由があると言っているのは大抵この種の人達です。しかし,多数派が大概のことを言っても許さるのは世の常です(独裁権力の下でも)。権力から好ましく思われない少数派の自由があるかが「自由」の真の意味なのです。

 革新派はそもそも許容の枠からはずれているだけに、その発言はいつも困惑の眼で見られてきました。もし、保革の入れ替わる政権交代があったなら、保守派の人々にも思想上の差別はよくないと肌身で感じる機会があったことでしょう(このことはドイツの裁判官の独立の議論の中で知りました)。

 しかし,冷戦構造の終結以来,このような保革で分ける考え方はもうできないはずですが,裁判所の内部ではまだ相当に根深いものがあるように思えます。たとえば、憲法、行政法、刑事訴訟法などの分野には、不幸にも、まだ解釈上の「保革の差」が残っています。司法積極主義、司法消極主義、あるいは人権か秩序かなど、法の解釈と適用の世界には、永遠に考え方の差はあります。どちらか一方に偏る政権党が長く権力を維持してきたことは、司法部の成長のためにも不幸でした。

 言論の自由とか,多数決原理という民主主義の基本原理も,裁判所内部ではまだ本当に生きた智恵としては機能していないのです。上から下まで1本の糸で結ばれていないと安心できないのです。他の行政庁の方が,もう少し自由の空気があるのではないかと想像しています。

 新聞社も同じことでしょう。記者の個性とものの考え方の多様さを大切にしているのではないでしょうか。これがなくなれば,言論の自由は根底が揺るぎます。

 さて,こうした裁判所の伸びやかさを妨害しているのが,今の人事制度です。転勤先(異動)の心配が,裁判官にとって最大のものです。若い人たちも含めて,どこまでの発言が許容内か,どこからは当局の不興を買うかを本能的に見分けています。不興を買うことで,希望の任地に行けないことを恐れています(こうした心配が裁判の面には影響がないなどと誰がいえるでしょうか)。20年近く経験すると,裁判長の人事,3号昇給のことも気にかかりだします。いつまでも青臭いことをいっている,と思われて,不興を買いはしないか,心配がはじまります。

 物言わぬ従順な裁判官が上から下まで見事に作られるのです。

 最高裁は,人事評価だけは少し前向きに検討しているようですが,たとえ,人事評価が公正なものになったとしても,今までのように,これを一つの人事情報と位置づけ,ただ人事は,これに限らず,他の情報をも参考にして決めるというのでは,裁判官評価を公正にした意味がほとんどありません。人事は,資料(評価),主体(誰が),手続の三者がきちん透明性をもって決められてこそ,公正さが保障されるのです。きちんとでなくても、ある程度の透明性でも私などは希望が持てます。

 Aさんにとって,分かりきったことを並べているかもしれません。お許し下さい。また,お忙しい中,厚かましい意見をお聞かせしたことになったかもしれません。ご無礼をお許し下さい。

 ご活躍を祈っております。