● 40年間の裁判官生活を振り返って(要旨)
下澤悦夫(前岐阜家裁判事)  
 私は1966年4月,22歳で札幌地裁判事補に新任され,本年8月31日65歳に達して判事定年となり退官しました。40年と5か月の裁判官生活でした。任官当時,法曹界には若手法律家の結集した青年法律家協会(青法協)という団体が存在し,平和と民主主義を守ることを目的として活動していました。学生時代に無教会キリスト者となり,かつ社会理論としてマルクス主義を受け入れていた私はためらわずに青法協に加入し,最後まで青法協会員裁判官として活動してきました。

 ところが,1969年9月に平賀書簡問題が表面化しました。これは自衛隊違憲裁判を問う長沼ナイキ基地訴訟の担当裁判長福島重雄判事に対する裁判干渉事件でした。福島判事が青法協会員であったために,平賀書簡問題を契機として右翼陣営から青法協会員裁判官をして「偏向裁判官」であるとする攻撃が始まりました。最高裁当局はこの動きに同調し,青法協は政治的色彩を有する団体であり,裁判官がこれに加入することは好ましくないとして,会員裁判官に対する脱会勧告を組織的に行いました。その上で最高裁は1971年3月31日不当にも青法協会員である宮本康昭判事補の判事再任を拒否するという挙にでたのです。これは思想,信条を理由とする不当な裁判官人事であり,青法協の裁判官組織に深刻な打撃を与えました。これがその後に続く司法反動の時代の幕開けでした。

 また,1976年12月8日大阪地裁3判事の宅調日ゴルフ問題が発生しました。この問題に関し,最高裁は高裁長官の申し合わせという曖昧な方法で裁判官に対して一般職職員と同じ内容の休暇制度の適用するとしてこれを強制したのです。裁判官に対して一般職職員と同じ休暇制度を適用することは法的には無効であり,しかもそれを強制することは裁判官の市民的自由に対する不当な侵害です。

 1984年に青法協裁判官部会が青法協本部と分離して如月会となり,青法協の裁判官組織は消滅しました。そのときまで私は青法協会員裁判官としてとどまり,裁判官の再任問題及び休暇問題に関して最高裁の方針に異議申立をし続けました。そのために,私は定年退官するまで判事3号に留め置かれ,地家裁所長はおろか裁判長のポストから排除されるという差別的な人事処遇を受けました。

 1990年代に入ると日弁連の「司法改革に関する宣言」や最高裁の方針転換もあり,それ以後現在に至るまで司法改革の流れが拡がってきています。しかし,真に司法改革を実現するためには裁判官の市民的自由が保障されていることが必要不可欠です。裁判官が団体を結成してこれに加入し,自由に活動できることは裁判官の市民的自由の核心であるというべきです。そのような考えに立って,私は40年の裁判官生活の前半には青法協に,後半には日本裁判官ネットワークに属して活動してきたのです。
(平成18年9月,退官記念講演要旨)