皆様からのメール(2004/8/1)


20歳代 男性 京都市 学生

 まずは、ホームページの再開おめでとうございます。激務の合間を縫って更新してくださる関係者各位のご尽力には、ただただ頭が下がります。

 私は、法曹を志す学生です。現在の日本、世界の法と法律家、市民を取り巻く状況に興味を抱き、様々な本を読み漁っているなかで、このようなネットワークの存在を知りました。

 当初は、司法制度改革がまさに進行中とはいえ、裁判官の方々が直接声をあげて、「裁判官として」社会に働きかけるなんて、随分思いきった、もっというとアブナイことをするなあという気持ちでいました。ですが、声を届けてくださる裁判官の方々の、気負いの無い、明るくあっけらかんとした雰囲気(おそらく苦労を見せないようにして下さっているのだと思いますが)に接するにつけ、非常に嬉しく、希望に満ちた気分になりました。「この国の裁判官もどうやら捨てたものではないぞ」と。これは、裏をかえせばネットワークに出会う前の私の裁判官観が、職務に圧殺され、言論の自由も無いという、非常に重く暗いものであったことに起因します。このような見方をする市民は、私以外にも多くいらっしゃるのではないでしょうか?ネットワークとの出会いは、私の蒙を(一部)啓いてくれました。今では家族、友人にも興味を持ってくれるものが居ます。

 この何年か更新が滞りがちだったため、関わっておられる裁判官の皆さんが職場で不利益を蒙っておられるのではないかと、内心非常に心配しておりました。6月1日付けの小林さんの言葉をみて、胸をなで下ろしております。これからも、くれぐれもお体にお気を付けて、ご無理の無いように活動を続けていって下さい。


6月7日、関係者の方々の健康を祈って

p.s.僭越ながら、小林裁判官とは同郷の様です。将来、(代理人として)法廷でお会い出来るように、頑張りたいと思います。


40歳代 男性 神奈川県 公務員

 ホームページリニューアルおめでとうございます。

 以前のホームページも良かったですが、今回のリニューアルでぐっと見やすくなりましたね!

 また、コンテンツも充実していて楽しめます。

 横浜にもJ−ネットファンクラブが出来ました。

 次は東京にJ−ネットファンクラブが出来るようなので、東京と横浜の間に住んでいる身ですから、東京のJ−ネットファンクラブもサポートしようと思います。

 日々押し寄せる事件でお忙しいとは思いますが、まずは健康第一で。
「もっと開かれた裁判所」を皆で作って行きましょう。




40歳代 男性 大阪府 公務員

 いよいよ,裁判員制度が5年後に始まることになりました。法案は,与野党の賛成多数で可決されたわけですが,私は,本当に大丈夫かなという気持ちで一杯です。

 裁判への国民参加で,刑事裁判に国民の良識を反映させるということなのでしょうが,なんだか英米の陪審制度の良いところ取りのようのような気がするのです。

 例えば,自白調書の任意性,信用性。裁判官ですら,取調官の尋問を聞いても「霧の中にいるような」気分になるというのです。素人の裁判員に,相対的特信性といっても理解できるのでしょうか。それに,一人称で理路整然と書かれた捜査段階での供述調書と,あれこれ些細な点を行きつ戻りつしながら,たどたどと進む被告人質問や証人尋問。さあ,どちらが判りやすいでしょう。加えて,逮捕=有罪という誤った固定観念による悪意に満ちた新聞,週刊誌などのメディアの情報の嵐。さらには,検察官の判りやすい冒頭陳述。下手をすると,裁判員制度は,真実発見ではなく,一時の激情が支配する断罪の場と化してしまうのではないでしょうか。

 あと,最も不思議なのが,裁判員が関与した判決に対しても控訴ができ,控訴審は現行どおり行われるという点です。これって,せっかく裁判員を集めて,国民の視点から事実認定や量刑をさだめても,結局,検察官や被告人の控訴によって,相変わらず,職業裁判官の事実認定や量刑相場に従った判決が下されるってことでしょう。不思議ですよね。これって,裁判員の人,怒りませんかねぇ。確か,英米の陪審制度では,陪審答申が無罪の場合,検察官控訴はできないことになっていたはずでは?さて,裁判員が無罪した事件について,検察官控訴がなされ,高裁が破棄自判で有罪を宣告した場合,裁判員の皆さんはどう思うのでしょうか。また,被告人が量刑不当を主張して控訴して,控訴審が量刑相場に従って破棄自判した場合はどうでしょうか。

 私は,なんだかとても違和感を覚えるのですが・・・。




40歳代 男性 大阪 公務員

 56.57パーセント。これは,先に行われた参議院議員選挙の確定投票率である。

 国民から無作為に選ばれた裁判員が,殺人,傷害致死などの重大事件の刑事裁判で,裁判官と一緒に裁判をするという裁判員制度では,裁判員は,衆議院議員の選挙権を有する者(20歳以上の国民)の中から,無作為に選ばれるという。

 さて,有権者の3人のうち,1人は確実に投票に行かないというこの国において,果たして裁判員制度の趣旨をきちんと理解し,被告人に対して死刑や無期懲役といった厳しい刑罰を科することになる事件の裁判員の職責を果たそうという人はいったいどのくらいいるのだろうか。休日,近所の投票所に出向いて,投票用紙に記名して投票箱に入れて帰ってくるという一連の作業さえ厭う人たちが,平日の,しかも昼間に,自分のことでもないのに,裁判所に呼び出されて来てくれるのだろうか。そのうえ,各党の候補者の公約や政党のマニュフェストを比較検討する以上に,複雑かつ困難な事件記録の検討を,平日,仕事を休んでまで,きちんとしてくれるのであろうか。

 司法制度改革審議会意見書は,冒頭において,司法制度改革の根底に流れる思想につき,格調高く,こう述べている。
「これら諸々の改革の根底に共通して流れているのは,国民の一人ひとりが、統治客体意識から脱却し、自律的でかつ社会的責任を負った統治主体として、互いに協力しながら自由で公正な社会の構築に参画し、この国に豊かな創造性とエネルギーを取り戻そうとする志であろう。」
まさしく,名文である。

 しかし,他方,統治客体意識から脱却し,自律的でかつ社会的責任を負った統治主体としての意識を持つものは,今のところ,全有権者の6割にも満たないのが現実なのである。否,地方選挙を含めた投票率はさらに低下するであろうから,おそらく50パーセントにも満たないのが実際であろう。統治客体意識から脱却し,自律的でかつ社会的責任を負った統治主体としての意識を持つ」というのは,生半可なことではない。

 裁判に対する批判は,簡単である。無期懲役で仮出所した者が再び殺人を犯したという事件があれば,どうして死刑にしなかったのかという街の声がニュースで繰り返し放映され,死刑が執行されると死刑廃止論者のコメントが新聞紙上をにぎわす。そんなにいうなら,自分たちで裁いてみれば・・・というのが,「統治客体意識から脱却し・・・」云々の名文のホンネであろう。しかし,裁判員として裁判に携わりたいかという質問に対し,6割以上の国民が「できればやりたくない」という回答を示しているという世論調査がある。結局,批判はするが,自分がそれに関わって責任を負うのは嫌なのだ。これは,何も裁判員制度に限ったことではない。政府を攻撃し,政治家をこき下ろすことは簡単だが,その政府を構築し,政治家を任免する権利はきちんと国民に憲法上,保障されているのである。「文句はいうが,自分ではやりたくない」という人たちが,「自分でもやってみて,周りの人たちを巻き込んで,少しでも文句を減らそう」とすることが,「統治客体意識から脱却し・・・」云々の思想であろう。

 身近なところでは,マンションの管理組合,PTA活動,労働組合から,大きなところは借金まみれのこの国の政治に至るまで,そのような思想が遍く国民一般に行き渡れば,この国は随分と住みやすい国となろう。

 しかし,「地上の楽園」など実在しない。

 裁判員制度は,実のところ,「裁判」の制度ではなく,「政治」制度である。フランスの歴史家アレクシス・ド・トックヴィルはアメリカの陪審制度を評して,「陪審こそ民主主義の実践である」と述べているが,まさしく,至言である。司法制度改革審議会の意見書も「政治部門」に並ぶ「司法部門」を体の動脈と静脈に例えていたが,おそらく裁判員制度は,選挙制度と対比すべき重要な国民参加の方法となるであろうと思われる。

 動脈硬化を起こしつつある,この国における裁判員制度の行く末には,多くの困難が待ちかまえていると思わざるをえない。