● 北海道初の陪審裁判と山崎有信,大塚守穂弁護士

くまちん(サポーター)

 旭川弁護士会にかつて山崎有信という弁護士がいた。大正5年に弁護士試験に合格し,大正7年から旭川で開業しているのだが,特筆すべきは,生涯の中で30冊以上もの本を出版していること,それも弁護士試験合格時の講演を元にした「判検事弁護士試験及第術」等の法律書よりも,「上野彰義隊」,「大鳥圭介伝」(鳳啓助ではないよ。榎本武揚とともに五稜郭で闘った歴史上の人物だよ。ポテチン)等の歴史書が多いことである。中でも「大鳥圭介伝」は,今日でもインターネット上で高値取引されている。著書の中には,新聞社の旭川名士人気投票の上位10人の評伝「旭川十傑」等という本もあり,御本人もちゃっかりと10人の中の1人として取り上げている(その目立ちたがりの血を承継したのか,旭川弁護士会は5人もの弁護士が実名ツイッターアカウントを持っているという,異様に実名ツイート率の高い会となっている。近藤伸生@asahidake_law,井上雄樹@yinoue1975,足立敬太@keita_adachi,大窪和久@okuboka,そして私@1961kumachin。フェイスブックにはこの5人の他に古井健司会員がおられる。)。その事務所所在地は,旭川市六条通八丁目左10号,まさに竹本広報委員長の事務所のあるビルの場所である。
 さて,山崎有信の著書のうち数少ない法律書の中で,一際異彩を放って歴史的価値を有している本がある。それが昭和4年11月に東京の法律新報社から刊行された「殺人未遂か傷害か」である。これは,自らが主任弁護人を務めた旭川地方裁判所での北海道初の陪審裁判について,その殆ど全部を記録刊行したものである。山崎は,陪審第1号弁護人としての野心があったのか,裁判前に司法省刑事局に陪審法廷の写真撮影と速記録取の可否を照会し,裁判長の訴訟指揮に従えば問題ないとの回答を得て,綿貫清隆裁判長(地裁所長でもあった)から陪審員への説示以外は速記して良いとの許可を得たため,今日にほぼ完全な記録が残った。

 北海道初の陪審裁判は,昭和3年11月24日に旭川地裁において開廷された。法廷は新設された約97坪の陪審法廷で,二階建て延べ80坪の陪審員宿舎も併設され,娯楽室・浴室も完備されていた。対象事件は,前記著書名から判るように殺人未遂被告事件である。昭和3年9月16日に,礼文島のはしけ人夫同士がその親方宅内で喧嘩をし,どちらかというと被害者(32歳)が被告人(28歳)に対して暴力を振るっていたのだが,一旦仲間によって引き離された。その後,被告人が外に出ようとしたところを,更に被害者に暴力を振るわれたので,近くにあった鉞(重さ1キロ前後の大工道具)を持って,被害者の眉間に斬りつけ,頭蓋骨に達する全治約4週間の傷を負わせたというものである。被告人は殺意を否認し(捜査段階では自白していたが,予審から否認。陪審法2条,7条),なおかつ陪審裁判を受ける権利を放棄しなかった(陪審法8条)ので,北海道初の陪審裁判が開廷されることとなった。弁護人には主任の山崎有信の他に大塚守穂弁護士が選任されている。
 当時の陪審法は,陪審員を,30歳以上の男子で,2年以上同一市町村に居住し,2年以上直接国税を3円以上納めており,読み書きのできる者に限定していた(陪審法12条)。一回の裁判ごとに36名の陪審員候補者が呼び出され,24名以上が出頭しないと陪審構成手続が行えないところ,当日には28名が出頭し,事なきを得ている。欠席者のうち,3名が既に死亡した者であったところに,果たして市町村による候補者名簿作りが適正に行われていたのかという疑問を感じさせ,山崎弁護士もこの点「甚だ遺憾」と述べている。
 裁判長が抽選箱から氏名票を一枚ずつ引いていく形で選ばれた12人の陪審員は,新聞紙上にも住所氏名が報じられた。紋別の呉服商,多寄の農業者,滝上の旅館業者,名寄の金融保険業者,増毛の漁業者など,支部管内も含めた多様な顔ぶれである。山崎弁護士の本には,何と陪審員全員の顔写真が掲載されているが,山崎弁護士は出版に際して,陪審員から感想と写真の提供を求めたようである(一名については感想文が掲載され,その中に山崎弁護士の求めに応じて近日中に写真を送付する旨が書かれている)。陪審員の態度については評価が分かれ,居眠りしている者やあくびをする者がいたと書いた新聞記事もあるが,山崎弁護士は,「居眠りをした者など一人もいない」「下を向いていた人が誤解されただけ」等とこうした報道に反論している。ちなみに,陪審員には,陪審法70条2項で質問権が認められていたが,記録上行使された形跡はない。
 選に漏れた陪審候補者は,特別傍聴人として遇されていたようで,そのため一般傍聴席は50名程度しかなく,先着順で未明から並んだ者しか傍聴できなかったようで,山崎弁護士は傍聴席の拡充を要望している。
 記録を読んで驚くのは,公訴事実朗読(未必の殺意が前提)の後,いきなり裁判長から延々と罪体に関する被告人質問がなされていることである。職権主義で予審記録が手許にある以上は当然なのであるが,予審調書との供述の矛盾点を露骨に追及し,それも被告人を「お前」と呼び,「予審判事の調べたところに依ると,○○らしいが,お前は覚えはないか」,「当たり所が悪いと場合によっては死ぬこともあると思わなかったのか」,「予審判事は別に事実を作って書かれた訳ではなく,予審ではお前の自由に言ったことであると思うがどうか」などと質問されると,陪審員に対して裁判長が自分の心証の方向に明示に誘導できるのではと思ってしまう(今日の裁判員裁判でも,裁判官の補充尋問の際に,そうした危惧を感じることもないでもないが)。当事者からは,山崎弁護人のみが一点の質問(鉞で一撃を加えた後に,被害者の後を追ったか)を求め,これも裁判長がひきとって質問している。
 被告人と被害者は,元々知人で,樺太や小樽でも一緒に働いたことがあり,被告人が8月に礼文島に来た当初は,被害者宅に身を寄せていたという関係である。こうした関係もあってか,本件では被害者が,弁護側証人として処罰意思がないことを証言するという異例の展開になっている。この証人尋問も裁判長が行い,予審よりも被告人に有利な方向に証言が後退(公判では重要な点について記憶がない旨を述べている)したことについて,裁判長から「傷を受けて頭が悪くなったのではないか,お前はその時のことをすっかり忘れたのではないか」,「鉞を振り上げてきたのを,知らずに頭を割られるということは,実に迂闊千万な話だ」などと,それこそ失礼千万な質問をしている。
 本件では,被告人の未必の殺意を立証するために,犯行前後の被告人の言動を目撃している5人の検察側証人が採用されており,本来であれば2,3日の連続開廷になってもおかしくはないのだが,一日で結審している。それは,暴風のため船が出ず,礼文島在住の検察側証人がいずれも出頭できなかったためである(被害者は函館近郊に転居していた)。こうした場合,陪審法はその73条で広範な直接主義の例外を認めており,各証人の予審段階での調書が朗読された(73条3号「証人公判廷において供述をなさざるとき」)。また,被告人の捜査段階の自白調書についても当然のように朗読された(73条2号「公判外の尋問に対してなしたる供述の重要なる部分を公判において変更したるとき」)。
 夕刻までかかった裁判も,午後の大半は,論告と弁論に費やされた。検事の論告は大審院判例を根拠に未必の殺意について詳細に説明する点から始まり,証拠調べ済の調書を改めて朗読して,そこからの殺意推認過程を述べている。山崎弁護人の弁論は,まず,本件が比較的新聞報道された点について「新聞紙に書いてあるのは真の事実とは大いに違う,又新聞紙やその他,人の噂をもって判断の材料に供してはならない」と注意喚起することから始め,直接主義の例外として朗読された調書の限界,更には自白調書の問題点を指摘する。未必の殺意論に対しては「普通喧嘩の際,自分が今他人の身体を傷つければこの傷は死の結果をきたすであろうとそういうような回りくどい考えはない,後からそれは言うこと」と反論している。その後,山崎弁護人は,アメリカやフランスの,それも殺意以外が争点の事例を長々説明し,裁判長から本件と無関係と制止されるも,その後も日本国内各地の無罪答申,認定落ち答申事例を紹介しており,その勉強熱心さはうかがわれるものの,やや空回りの感がある。大塚弁護人は,判例というものは基本的に事例判断であるから,陪審員が検察官の挙げた未必の殺意に関する大審院判例に拘束される必要はないとし,「諸君が事件を判断せらるるに当たり,難しい考えを持たず,普通の常識をもって,即ちわが民衆の間に行われる常識民衆的な信念から出発して,殺人と言うことはどういう意味であるかということを御探求になって,それを本件にあてはめ,裁判の公正を期せねばなりません」と言い,未必の殺意論は「民衆の一致した解釈ではない」と指摘する。その上で,本件の傷跡と凶器の形状から,殺意が推認されるほど強い打撃があったとは思われないという,今日的にも通用しそうな緻密な弁論を行っている。新聞記事によると,大塚弁護人は,ポイントで声を落としたり,被告人を指したりしながら弁論を進めたようで,その結果法廷は水を打ったように静まり,被告人のすすり泣きだけが聞こえたというから,法廷弁護技術では山崎を凌駕していたようである。
 午後5時過ぎから30分弱の説示が裁判長からなされた後,「主問 被告人は,被害者に対し殺意をもって,同人の頭部に斬りつけたるも,その目的を遂げざりしものなりや」「補問 被告人は,被害者に対し,単に暴行をなす意思にて鉞をもって斬りつけ負傷せしめたるものなりや」との発問について約1時間の評議がなされ,「主問 然らず」「補問 然り」との答申がなされた。裁判所は,答申結果が不当と考えれば,新たな陪審員を構成することもできたが,答申を採用することとした。
 直ちに情状に関する第二次論告・弁論がなされ,検事は懲役1年を求刑し,弁護人は被害者の宥恕や前科がないことを理由に執行猶予を求めた。山崎弁護人は,即日判決を求め,裁判所もこれに応じて,午後7時半過ぎに,懲役8月の実刑判決が言い渡され,双方が直ちに法廷で上訴権放棄をしている。被告人に前科がないことからすれば,今日的には受け入れにくい量刑判断で,量刑で検察に「借り」を返したのでは,と斜に構えたくもなる。山崎の前掲書に収録されている立会検事の感想は,「未必の故意を了解し得ない素人たる陪審の答申としては強ち無理なりとも言えないと思う」,「あの位の実刑を科すればそれで良いと思う」となっている。

 さて,今日から見て,結果的にこのような貴重な記録を残した山崎弁護士の情熱と高揚感には,大いに学ぶべき点があるように思われる。また,陪審制下での法解釈の民主化を説く大塚弁護士の弁論にも,陪審制度に対する期待感がうかがわれる。両者の力が相まって,殺意認定落ち答申という成果に結びついたと思われる。
 現在,旭川弁護士会には,大塚守穂先生寄付金という特別会計がある。もはや詳しい経緯は不明だが,大塚守穂先生ないしはご遺族が会に浄財を寄付され,それが昨年までの運用益等により450万円超に達していた。そろそろその使途について議論をしなければと考えていたところ,今次東日本大震災を受け,そのうち350万円を被災地相談弁護士派遣事業に拠出することとした。
 陪審裁判をこの地で立派に支えた偉大な先人の名を汚さぬよう,会員一同心していきたい。

参考文献
     山崎有信著「殺人未遂か傷害か」(法律新報社,昭和4年)
      (貴重な資料を貸与いただいた四宮悟弁護士に深謝)
     小幡尚「北海道初の陪審裁判−1928年,旭川地方裁判所における事例」
     「旭川研究<昔と今>」第14号(旭川市,平成10年)所収
     山田幸一著「北海道の重大事件史」(寿郎社,平成17年)
      (元札幌高裁首席書記官)
(平成23年8月)