● 公訴時効の廃止または期間の延長の問題について

ミドリガメ

 法制審議会は2月24日が公訴時効の廃止または期間の延長について法務大臣に答申をしたということが報じられました。殺人等の凶悪事件の真犯人が生きているのに,訴追ができなくなるという不条理さから,時効廃止を希望する被害者の遺族の方々の気持ちは十分理解できるつもりですが,時効廃止等にはメリットとデメリットがあるようで,遺族の方々の熱意・悲願に答えるということだけを主に考えて突っ走ってしまうと大きな問題が残るように思います。東京新聞の2月26日付け社説も,国会の徹底審議を求めています。これによると,内閣府の世論調査では、殺人などの時効が現在25年であることについて、約55%が「短い」と答え、そのうち半数が「時効廃止」を求めている,「逃げ得は許さない」という社会意識の高まりがうかがえる,としています。たまたまインターネットでみた市民の賛成意見では,被疑者・被告人=真犯人という固定観念が前提にあって,「犯人の逃げ得を許さないという正義感」が直接に時効廃止意見に結びついているように感じられました。もしこれが賛成世論の根幹をなしているとすると,いささか短絡的に過ぎる危険性を感じます。

 以下,検討不十分ですが,思いつくままに私の感じた問題点をあげてみました。

1 殺人等の事件で時効が廃止されると冤罪が増える,あるいはその原因になるという意見があります。日弁連会長もそのような内容の談話を発表していました。私も,確かにそのような面はあると思います。
  時効制度の存在理由を考えてみると,時間が経つと関係者がいなくなる,あるいは関係者の記憶が曖昧になる,証拠が散逸するなどの問題にあるなどといわれます。これは具体的にはどういう問題なのでしょうか。
  訴追側の証拠についてみると,時効が廃止され25年以上の長期間が経って,これまで起訴できなかった殺人事件が起訴に持ち込めるようになるとすれば,それは極めて偶然に有力な物的証拠が見つかるということしか考えられません。例えば,犯罪現場に遺留された証拠から付着物のDNA鑑定などが実施されて犯人のDNA型が明らかになっていたが,一致するDNA型は登録されていなかったが,偶然のことからこれと特定人のDNA型とが一致したというようなことでしょう。足利事件でも弁護人がDNA鑑定をした資料の適切に保存をするように裁判所に申し入れをしたことがありましたが,DNA鑑定の資料が保存状態が悪いまま長年放置されたり,再鑑定の資料が残されていなかったりすると,元の鑑定資料の取り違えや入力ミスなど人為的なミスは避けがたいものですから,そのような疑問が出ても,再鑑定ができないという問題もでてきます(3月20日付の朝日新聞には,特定人のものとしてDNA型データベースに登録された情報が別人のものであったため,誤った逮捕,捜索がなされたという記事が載っています。)。
  足利事件の時代に比べてDNA鑑定の精度が飛躍的に高くなった現在においても,殺人現場から採取された資料から検出されたDNA型が被疑者のそれと一致したというだけでその人が犯人とは断定できない場合があります。犯罪と切り離せない物に残された物質(例えば,被害者の着衣に付着した血液)で,その時に付着したとしか考えられないものから被告人のDNA型が発見された場合であれば,犯人性の証明はほぼ決定的といえるかも知れませんが,場合によっては,犯罪が起こった時と別の機会に犯行現場を訪れた被疑者が細胞片を含むDNA鑑定の資料を遺留したという可能性もあるからです。例えば,前科・前歴のない新米の空き巣狙いが指紋や手あか等を遺留することだってあり得ます。
  他方,被疑者(真犯人とは限らない。)の側から言えば,詳細な日記を付けている人でもない限り,もっと早く被疑者とされていればアリバイが主張できた場合でも,長期間経ってすでにその日のことはかなり記憶が曖昧になり,あるいは無くなっているのが普通です。また,親が死亡したり,家を建て替えたときに関係資料も捨ててしまったりして散逸し,家族,知人など当時の事情を知る者も死んでしまって誰も自分のアリバイや有利な事実を証言するものがいないということは十分考えられます。
  また,被告人が捜査段階から徹底して否認していれば,単純に証拠物や目撃証人の証言で被告人が犯人と立証できるかどうかという証拠評価の問題になりますが,これに虚偽自白であるとされる被告人の捜査段階の自白が絡んでくると大変複雑なことになります。犯行日時からそれほど長い年月が経っていなくても,犯行時の記憶が曖昧で(被疑者が真犯人でなければ,大いにあり得ることです。),アリバイが主張できないことが被疑者にとって非常に不利な事情となります。アリバイが曖昧なことを追及されて,自白に追い込まれたという事例は,現実にあったのではないでしょうか。自白内容が虚偽であれ,いったん自白をすれば,被告人にかかった疑いを法廷で打ち消す負担は極めて重いものです。時効制度を廃止するなら,このように確実に予想できる被告人の不利益をどのように埋めるのかを制度設計上考えておくべきではないかと思うのです。少なくとも現在の制度においてもなお残っている,誤判の要因を助長することにならないような配慮が必要ではないでしょうか。
  このように,公訴時効撤廃の前提として,まず最低限取調べの可視化だけでも保証すべきでしょう。鑑定資料の保存態勢も重要ですし,残された資料がないため再鑑定ができない鑑定を決定的証拠には使えないというルールも必要ではないかと思います。
  他方,目撃者がいたとして,その供述だけでは犯人を特定できないが,新しく発見された証拠物やこれについての鑑定結果と相まって被告人を特定することができる場合があります。しかし,長い年月が経ち,その目撃者が死亡している,あるいは老齢で事実上証言能力がないことが十分考えられます。その場合には,刑事訴訟法の規定(321条1項2,3号)で,捜査段階での供述調書が証拠として採用されることになるでしょう。これも被告人にとって大いに不利益な問題です。証人に対する反対尋問ができないからです。反対尋問ができない供述の証拠採用を制限し,参考人調書取調べは録画されていることを要件とするとか,裁判官に尋問を求めるなど参考人が死亡する可能性も考慮した刑訴法226条,227条を拡張した証人尋問の規定を置くことも必要かも知れません。

2 公訴時効が廃止されたり,長期化すると再審が困難になる面もあるように思われます。従来は弘前大学教授夫人殺人事件のように,時効が過ぎたからこそ真犯人が説得に応じて名乗りでてくることもありましたが,時効がなくなれば,その可能性がなくなるだろうと思うのです。富山・氷見事件のように,時効期間内であるのに真犯人が出てきたというのは法定刑として死刑のない強姦事件だからであって,死刑になる可能性があれば,恐らく,真犯人の自白は絶無ではなくともほとんど期待できないだろうと思います。

3 時効が廃止されれば,従来のように法的なけじめにとどまらず,社会的なけじめ,節目というものもなくなります。いつまでも特定の事件に捜査人員を割くことは不可能ですから,形ばかりの捜査態勢でいつまでも捜査が続けられることになるのは必然でしょう。そうなると,警察から殺人等の疑いを掛けられている人の立場はどうなるでしょうか(それが真犯人なら自業自得でしょうが,そうでないのに疑いを掛けられている人も多いでしょう。)。警察としては,例えばX氏から何度か事情を聞いたきりで決め手に欠けるために放置していることがあるとします。さりとて,あなたは白ですとは言えないとすると,X氏にとってはいつまでも決着が付きません。裁判で無罪判決を受けても,世間からは決して「白」とは見てもらえないのが社会の実情でしょう。そうすると,警察の当事者が退職し,あるいは転任して,事実上「お宮入り」になった事件として忘れてしまったとしても,いったん疑いを掛けられた人は,社会的に「疑惑の人」というレッテルを貼られたままであることは現状でも十分想像可能です。これに加えて,時効が廃止されれば,法的には起訴される可能性が残っているのですから,警察に疑いを掛けられた人は「主観的」にはどこで監視されているかもしれないという,極端に言えば,針のむしろに座っている意識のまま一生を終えることになるでしょう。そのような不安感は当事者でなければわからないでしょう。被害者側に十分配慮することには異論がないのですが,真犯人とは限らない被疑者側に過酷にならないような配慮も必要ではないでしょうか。

  死刑を含む罪の時効期間が25年に延長されて5年余りしかたたないのに,このような問題の手当なしに今時効の廃止を急ぐ必要はあるのでしょうか。

(平成22年4月1日)