● 裁判官と「慣性の法則」 
ミドリガメ(サポーター)
安原浩さんのテレビ(鳥越俊太郎さんのインタビュー)や朝日新聞のコラムでの発言に触発されて,少し考えてみました。ご意見を頂きたいと思います。

 安原さんは次のように言われる。

(1) 日本では起訴された事件の99.9%以上に有罪判決がなされている。このような実務に慣れた裁判官は,被告人が否認していても,(自白調書があるのだから)本当はやっているのではないかと思ってしまう。
(2) 従来の裁判がいわゆる「調書裁判」であることから,「裁判官は,警察官や検察官の調書ばかりを読んでいると,警察官や検察官の世界にどっぷりとつかってしまう」という(考え方もこれに同調してしまっているということであろう。)論旨である。本質を突いた意見であろうと思う。


 私自身の経験から言っても,自白の任意性に関する被告人質問において,被告人は警察官から暴行や脅迫を受けたわけでもないのになぜ自白したのかという観点から,被告人に厳しい質問してしまうことがあることを認めざるを得ない。そして,ある傷害事件の審理の途中までは,被告人の言うことには説得力が乏しいかなと思っていたが,取調べ警察官の証言を聞くうちに,その一言がヒントになって捜査姿勢の問題がることに気づき,被害者の証言の自己矛盾,これと同内容の自白調書も同じ傷があることから無罪の結論に至った事例を経験している。
 しかし,安原さんの発言は,短時間のインタビューであったり,紙面の制約があるからではあると思うが,ややストレートに過ぎるのではないかと感じている。裁判官を攻撃をするための文句としてなら,極めて刺激的であるし,裁判官の受けるダメージも大きい。起訴裁量のことを知らない人が,外国では20〜30%も無罪判決が出る国もあるのに,日本では99.9%以上有罪である,などと聞けば,なんと日本の裁判所は盲目的に検察官の言うことを聞いているのかと思い込むであろう。他方,現役裁判官やOBあるいはこれから裁判官になろうとしている人にとっては,「そんなことはない」「そんな風にいちがいには言えない」「自分はそう思わない」などと反発してしまい,素直に受け止められないのではないか。

 思うに,私は,裁判官の心理も「慣性の法則」になぞらえて説明できるのではないかと考えている。慣性の法則は,皆さんがご存じのとおり,「外から力が作用しなければ,物体は静止又は等速度運動を続ける」という物理法則であるが,裁判官の心理に「応用」すれば,次のようになるだろう。
 第1に,裁判官は,いつも有罪になるような事件ばかりを処理していると,それに慣れてしまって,無罪になるべき兆候があっても見落としてしまうおそれがある。最近の冤罪事件にもあったが,被告人が法廷で争わなければ,自白調書を批判的に読むことがなく,記録中に問題の種が現れていても見落とす可能性がある。
 最近,自白調書の証拠能力に関する主張は,もとより自白の任意性の主張もあるが,調書の偽造を含め記載が正確でないということの方が多いような気がする。そして,被告人質問をしてみると,必ずしもその言い分に説得力がないこともまた多い。こういうこともあって,過去に重大な冤罪事件がいくつもあり,現在もなお起こっている事実があるにもかかわらず,捜査官に対する一般的な信頼感や,被告人が自白したということを重くみる感覚はなお強いのではなかろうか(さらに,被告人が法廷でもいったん自白をすると,後に否認に転じてもこれを責任逃れのための弁解と解し,重く考えないということも起こりうる。)。従来,自白調書の任意性について争われた場合,被告人と警察官の言い分が水掛け論になると,供述経過などを細かく調べてその結果証拠採用されていることが多かったが,この点は,自白調書の任意性の審理に時間をかけられないということもあって,取調べの可視化論議が活発化した。裁判員裁判では,この点変化がありそうである。
 また,勾留手続では,被告人一般に対する見方が厳しい分だけ,罪証隠滅のおそれ,逃亡のおそれを抽象的かつ過大に考える傾向があった。仮に被告人に罪証隠滅の動機があると考えられるにしても,客観的にはそんなに簡単に証拠を偽造,変造したり,被害者等に働きかけることはできないという問題を軽視していたといえる(この点も,裁判員裁判制度の導入を控えて,裁判所内からも罪証隠滅のおそれ等を客観的に評価すべきであるとの主張が高まり,勾留保釈等に若干変化が出てきている。検察官の意見にはいまだにこの傾向が強い。季刊刑事弁護最近号参照)。
 第2に,裁判官は,日常有罪判決ばかりしていると,無罪判決は異例な事柄であり,無罪判決をすることに無意識の心理的抵抗あるいは周囲からどう思われるかという不安,最近では外部からも無罪判決好きの裁判官と見られるのではないかと気にすることはないだろうか(インターネットにはそういう裁判官批判の書き込みがなされることがある。)。逆に,ある裁判傍聴愛好家の方から「無罪判決をするのは勇気がありますね」とほめられたことがあるが,無罪判決をすることに対する不安は枯れ尾花を幽霊と間違って怖がる心理に近いのである。その実体は,検察官は事件を選別して起訴していることを知っているので,これを覆すことへの怖れ,そして,控訴審でその判断は間違いだと指摘されることへの怖れにある(無罪判決が出世に響くことを怖れるという意見もあるが,これは誤解であると信じる。)。私の経験では,実務経験が増えて,単独事件で無罪の2,3件も言渡しをすると,この程度の理由をきちんと書けば検察官は控訴できないということがわかってきた。そうすれば,怖さも減少していくもののように思われる。そうなって初めて,肩に力が抜けて冷静な判断ができるように思われる。
 私は,有罪判決99.9%の現実においても,否認事件なのに,自白調書があるから有罪と信じるというほど裁判官は単純ではないと考える。しかし,証拠関係が微妙な事件だと,「合理的疑いを超える立証」の判断が甘くなる危険はあるのではないかと思う。ある限界事例の控訴審判決で,「合理的疑いを超える立証ができていないとして」1審の一部無罪判決を支持したことに関して,ある検察庁幹部から,「理論的にはその通りかもしれませんが,検察官にとっては厳しいですね」という趣旨の感想を聞いたことがある。検察官は,やんわりと批判したのであろうが,私は微妙な発言として記憶に残っている。この「理論通りでない部分」に問題があるのではなかろうか。

 この他にも,慣性の法則は次のような場合にも現れるだろう。すなわち,刑事弁護が不慣れな弁護人を中心に,弁護活動がパターン化する傾向が顕著にある(例えば,一時期の贖罪寄付や,被告人に反省文や謝罪文を書かせること,被告人の供述調書中余罪に関する部分を不同意にすることなどに現れている。刑事弁護マニュアルによるのかも知れない。)。また,弁護人が,被告人が事実を争う以上,証拠上やや無理があっても無罪の弁論をすることがよくある。もとより,弁護人の立場上,被告人の利益を考えて活動することを非難するものではない。しかし,事件に応じたメリハリのない強引な弁論は説得力を欠くばかりか,耳にたこができる感じもある。「オオカミ少年」の寓話のように,本当に問題のある事件においても,弁護人の主張に新鮮さと迫真性を感じないということもあるとすれば大きな問題である。
 刑事裁判の実務では,同じ検察官が,一定期間特定の部又は係裁判官に付いて公判立ち会いをするのが普通である。裁判所は,審理がスムースに行くように,訴訟運営に検察官の協力を求めることもある。人間である以上,長い間つきあえば人間的な情が生まれることは避けられない。これに対して,弁護人は事件毎に異なる。このような点でも検察官側には目に見えない利点があるといえる。
 考えるに,慣れというのは,人間の脳の防御機能の働きの結果ではないかと思う。もし慣れというものがなかったら,多くの刑事裁判官は,裁判員候補者たちの投書にあるように,いつも「不安だ,不安だ」といって病院通いをしならなければならなくなるだろう。
 確かに,裁判官は,安原さんの指摘するような問題はあるにしても,否認事件においては,自白事件とは異なる強い緊張感を持って対応している。決して「有罪率99.9%」の麻薬に酔って,警察官や検察官に遠隔操縦されているわけではない。その人なりに「慣性の法則」から抜け出す努力をしていると思う。
 例えば,私は「動かない事実」(客観性のある事実)を中心において争点に関する証拠の評価することを重視しているが,これもこのような「有罪率99.9%」の無意識的影響や主観的な事実認定の危険から逃れる工夫努力の一つと考えている。すなわち,意識的に動かない事実に依拠しその視点に立って対立する証拠を吟味することによって(海面に突き出た岩の上に立って潮の流れを望見するようなイメージである。船に乗ったままでは船自体が潮に流されていることに気付かないことがある。),裁判官は自ずと冷静かつ客観的で中立公平な立場に立つことができるし,自白調書に対しても突き放して見る視点を育てることになると考えるのである。このような視点によれば,最近最高裁判決があった電車痴漢事件のように,動かない事実の乏しい事件では,自ずから検察側証人の供述の信用性は厳しく吟味せざるをえないし,被告人の供述にはことさらに厳しくし過ぎないように気をつけなければならないはずである。
 また,判断の拠り所いかんによって,判断が変わってくることには十分に警戒すべきであると考えている。もし,被害者の証言をその悲惨な被害状況や証言態度から無批判に信じてこれに軸足を置き,これに対する被告人の弁解を,信用できる被害者の証言に反するから信用できないというふうに考えるならば,事実上立証責任を逆転させ,被告人が「無罪を証明しなければならない」ことになってしまう。この理は,科学鑑定や被告人の自白調書の場合でも同じであると思う。その依拠した証拠の評価に甘さがあれば,被告人に厳しい結果がでるのは当然である。
 裁判員制度が施行されたが,国民からは,なお,自分たちは何のために司法参加しなければならないのか,従来の裁判のあり方に問題があれば,裁判官が努力して直せば良いではないか,という厳しい意見が少なからず聞かれる。しかし,裁判員制度がうまく機能すれば,上記のしがらみのない裁判員は,従来の裁判官にあった上記の「慣れ」の問題を克服することに役だってくれるに違いない。私はその意味でも新制度の成功を期待しているものである。
(平成21年8月)