● 小松先生の想い出(「峠の落し文」から)
安原 浩 (広島高裁岡山支部) 
 元裁判官樋口和博氏の自費出版随筆集「峠の落し文」からの1編を著者の了解を得て紹介します。なお,石川元也弁護士から「樋口和博さんのこと」と題する投稿をいただいたので,合わせてお読み下さい。

(平成18年6月)

小松先生の想い出

樋口和博
随筆「峠の落し文」から
 私の旧制中学時代に、小松武平という校長先生がおられた。六尺豊かな体?で、街を歩かれる姿は実に威風堂々、頼もしい限りであった。

 先生は創設中学校の初代校長として赴任されて以来、寄宿舎で生徒達と起居を共にされた。寄宿舎は、破れた生け垣に囲まれ、瓦葺き平家建ての粗末な家で、明治の初期に建てられた古いものであった。私達十数名の者は、入学と同時に校長先生自ら舎監をなさるこの家でまったく家族的なのびのびとした生活をしたものである。それは、小松先生がやかましい規則など作る事が大嫌いで、すべての事を私達の自治に任せきっておられたからである。

 当時、街には映画館が三つあったが、市内の各中学校では映画が風紀上よくないというので、そこへ出入りすることを禁止しており、これを破る生徒達を監視するために、どこの学校でも「興風会」とか「矯風会」とかいうものを設けて、役員の人達が毎晩のように映画館の前に頑張っていて、自校の生徒の出入りを監視していた。

 私の学校ではそのような禁則もないし「興風会」とか「矯風会」というような恐ろしい見張りもないので、制服制帽のまま大威張りで堂々と映画館に出入りしていた。

 何でもその頃、アメリカ映画の「ハリケンハツチ」とかいう連続劇が上映され、高い岩壁から飛び降りるところなど、それがトリックなどとはつゆ伽らず、手に汗を握って観ていたことを覚えている。

 ところが,学校の先生の間でも他校と同様に,生徒の映画館への出入りを禁止する規則を設けるべきだという意見が多く、いつの職員会議にもそれが議題に上がっていたようだが、その都度、小松先生は「生徒の心に瑕をつけるような禁則を設けたくない。そんな規則を作ってしまうと、それを破った者は心に瑕を受ける」と言って反対しておられたが、内心では生徒達が自主的に映画館への出入りを止めることを念願しておられることは私達にもよく解っていた。

 親の心子知らずで、田舎から出て来た私達は、もうすっかり映画に凝ってしまい、毎週欠かさず通いつめるようになり、夜遅くなって寄宿舎の門限に遅れ、裏の生け垣の破れ目から入って知らん顔していることも度々であった。

 ある晩のことである。例の通り悪童どもが揃って映画を見て帰って来ると、門限の時間が過ぎて表門はピッタリと閉じている。仕方なしにいつものように生け垣の破れ目から入ろうと思い、裏へ廻ると、生け垣の傍で月明りに照し出されて大きな男が立っている。小松校長先生である。誰かが小さな声で「校長先生がいる」と言って警報した。いくら待っていてもその大きな身体は動かない。そうかと言っていつまでもジーツとしているわけにもいかないので、仕方なしにその生け垣の穴から入り、校長先生の横を隠れるようにしてこそこそと通って白分達の部屋に戻り、恐縮して勉強していると、のそりのそりと音がして校長先生が入って来られた。今夜は何かお小言室言われると覚悟を決めていると、「明日の勉強は出来たかな」というような事を言われ、「夜分遅くまで起きとると風邪をひくから寝なさい」と促して私達を寝かせて帰って行かれた。

 お叱りを受けると思っていた私達は、意外なことにほっとした。一言半句も小言を言われないで、出て行かれた小松先生の後姿を見込って、私達は何となく済まない気持になり、なかなか寝つかれずにいると、またいつものようにのそりのそりやって来られて、狸寝入りしている私達や、さきに寝入っている善良な寮友の寝相の悪い身体の上にいちいち布団を掛け直して黙って出て行かれた。

 映画で遅く帰ることが校長先生の意思に添わない事を充分承知している私達は、「もう映画に行くのは止めようか」などと、そのときは話し合ったりするが、次の週になると「ハリケンハツチ」の「次回上映をお楽しみに」という声が耳に残っていて、どうしてもジツとしていられない。「もう一遍だけ行こうよ」という事で、また誘い合って出かける。先生に見つかりはせぬかと恐る恐る帰って来ると、案の定、大きな男が突っ立っている。仕方なしに前と同様に隠れるようにして部屋に帰ると、先生が入って来られるが、映画の事や小言など何も言わないで帰って行かれる。こんな事を四、五回繰り返すと、先生はそのつど寒い庭に立って私達の帰りを待っておられた。

 そのうちに私達の間では「これではたまらない。こんな事を続けていったら校長先生が病気になってしまうじゃないか。校長先生はこの頃、だんだんに元気がなくなって痩せて来た。これはいかん、断然映画行きを止めることにしよう。そしたら校長先生も安心して寝られるだろう」という話が持ち上がり、とうとうそれっきり映画へ行く事を止めてしまった。爾来、寄宿舎生徒の間では、映画館に出入りしないという自然の取り決めが出来上がったのである。

 小松先生はわれわれ悪童どもの脱線行為を、唯の一度も言葉でお叱りにならず、ただ黙って夜寒の庭に立っておられたのである。そして、やってよいことか悪いことかを、私達自身に悟らせようとされたのであろう。私達は小松先生のおおらかな心によって、私達自らの力で一つのルールを作り上げる事が出来た。

 小松先生は学校の行事の美ヶ原登山で教え子が遭難したとき、吾が子を失った以上の哀惜と責任を感じて病気になり、その生徒達の名前を呼びながら亡くなられた。

 小松校長先生去って既に数十年、今日私どもの頭の中を去来するものは、あの生け垣のそばに立って私達生徒の帰りを待っておられた老先生の姿である。
(昭和二十五年一月)