● 樋口和博さんのこと
弁護士  石川元也 
 日本裁判官ネットワークのコーヒーブレイクに、10回にわたって掲載された随筆「峠の落し文」の著者、樋口和博さんの紹介を、遅ればせながら、させていただく。

 樋口さんは、明治42年(1909年)12月1日、長野県辰野町(旧・川島村)の生まれ。松本第2中学校(現…松本県が丘高校)、旧制松本高校、京都帝国大学法学部卒。私の中学、高校の20年先輩にあたる。昭和11年司法官試補、以後、大阪、青森、高松、長野、東京の各地裁で約38年間裁判官生活。昭和49年定年退官。昭和50年1月、弁護士登録(東京弁護士会)。法曹生活70年に近く、現在、満96歳である。

 この4月、お伺いしてお目にかかったが、目の手術がうまくいかず不自由をかかえられ、膝を痛められ歩行に支障があるものの、お元気で、頭脳も明晰、お耳もよく聞こえられる。

 樋口さんが松本2中を選ばれたのは、大正12年新設校で、上級生にいじめられることもないだろうということもあったらしいが、小松武平校長の名声を慕ってということでもあったらしい。小松校長は、長野師範、東京高等師範を出た長野県教育界の重鎮の一人、上田中学、諏訪中学の校長をされ、新設校の話に自ら校長を買って出て、理想の教育をと、開設1年以上前から準備に当たられた。樋口さんは、その第1期生である。当時の川島村からは通学できない、1年生から寮生活である。校長自ら舎監をされ、文字通り,寝食をともにしての教育である。

 実は、樋口さんの随筆集は3冊ある。最初は、昭和25年5月刊行の「蛙目」(がいろめ)、2度目が「蓑虫の声、裁判官生活三十年余」(まえがきに、「蓑虫や秋官として三十年」との句をかかげられ、蓑虫のごとく、裁判官も所詮厳しい一人の道を歩くといわれる。)そして、3冊目が昭和62年5月の「峠の落し文」で、その再刊が平成14年6月である。

 この3冊の随筆集に,すべて収録されているのが、「小松先生の想い出」である。中学生そして高校生になっても、小松校長の身体を張っての無言の教育というものが、樋口さんの人間形成の骨格となっていることは間違いないであろう。すでに掲載された随筆のうちに、少年事件や、子どもたちに対する温厳備わる話が出てきていると思う。この「小松校長の想い出」も掲載してほしい。なお小松校長は、諏訪、松本と、同じ時期に、高等女学校校長をつとめた若き日の土屋文明を助けたことで知られ、教え子の遭難に心を痛めついに病に倒れられた教育者であった。

 樋口さんの人間形成に大きな要因となったと思われるもう一つの出来事が、滝川事件である。京大3回生の、昭和8年5月、滝川事件がおこる。滝川幸辰教授の学説や著書の内容がマルクス主義的として時の文相鳩山一郎より休職処分とされ、大学の自治・学問の自由の侵害と抗議して法学部教授全員が辞表を提出したのである。熱血漢の樋口さんは、こんな大学で学ぶことはないと退学届を提出して郷里に帰った。松本の小学校で代用教員をすること10ヶ月(このときの教え子に慕われ、いまも交流が続いているという)。大学からは、退学届けは受理していない、戻れとの連絡で復学、司法官試験に合格。

 50年後の1988年から、東京を中心に,京大滝川事件記念会が発足し、樋口さんが代表となる。今年も5月26日、神田の学士会館での記念会には、園部逸夫元最高裁判事、井田邦弘・内田剛弘弁護士ら35人ほどに囲まれて、楽しい1日を送ったという。しかも、同じ会場で、樋口さんが永く名誉会長をしている松高剣友会の会合もあり、なおさらご満悦であった。

 裁判官になられても樋口さんは、裁判官らしくない市井の一市民であったようだ。(随筆「ハンチング」)かって、世田谷のお宅に、「高速道路建設反対」の自治会の看板がたてられていた(いいんですかと、たずねて、たしなめられた)。

 裁判の上では、松本支部の時代に、塚田木工所事件という労働判例に残る事件を担当された。昭和40年代の東京地裁八王子支部裁判長のとき、学生事件の被告へ訴訟指揮などが手ぬるいと、相当ひどい干渉を受けられたらしい、それにしたがわず、東京地裁本庁の裁判長で定年を迎えられた。近藤綸二、内藤頼博、畔上英治という「自由人」たちと、郷里に近い高遠の観桜会(内藤さんは高遠の旧城主の子孫、子爵)を楽しまれたり、俳句の仲間など、その交友の幅は広い。

 この4月お伺いした折りは、裁判員制度が陪審裁判に道を開いてくれるか、大きな期待を示されていた。残念ながら、私には、このところの動きから、真の司法改革への道が真っすぐ進んでいるようには見えないとの懸念を述べざるを得なかったが、超高齢の樋口さんの未来志向には感銘を受けてかえったものである。

最後に、私の手元に、なお3冊の「峠の落し文」がある。ご希望の方で、できるだけ市民の方に差し上げたいと思う。これまで掲載の随筆の感想をお書きになって、石川のところまでFAXで申し込んでほしい。感想文は、このコーヒーブレイクに載せてもらいたく思う。

FAX,06−6362−2702,石川元也。

(平成18年6月)