● 肩書(「峠の落し文」から)
安原浩(広島高裁岡山支部)
 前回に続いて,元裁判官樋口和博氏の自費出版随筆集「峠の落し文」からの1編を著者の了解を得て紹介します。

肩書

樋口和博
随筆「峠の落し文」から
 肩書ばかりがものを言う世の中で、私の友人Kさんは、前科十六犯という前歴があり、少年時代から約四十年間を刑務所で過ごし、最後に網走刑務所から出所したという肩書の持ち主である。

 私がそのKさんと親しく交際するようになったのは昭和三十二年頃、松本に在勤中、親しい友人池田雄一郎さんが一人の老人を案内して私のところを訪ねて来たことにはじまる。

 池田さんは信州大学の学長であった。池田さんの紹介するところによると、Kさんは日本アルプス登山のため信州に来て、塩尻駅で列車を待つ問、ベンチに腰かけてうとうとしていたが、列車が着いたので急いで荷物を持って乗車すると、その荷物が他人のものであった。自分の荷物でないことに気付いたときは、すでにお巡りさんが駆けつけて交番に連行された。置き引き犯罪の嫌疑である。指紋照合の結果、なんと彼が窃盗強盗など十六犯の前科持ちのしたたか者であることが判明し、その肩書の故に本人がうっかりして間違えたことをいかに弁解しても一切聞き入れてもらえず、そのまま拘置されて厳重な取調べを受けた。

 彼は自分が働いている寺に迷惑の掛かることを恐れて、最初から住所を隠していたが、しぶしぶながら、静岡県三島市の竜沢寺の寺男であるとの申し立てをした。同寺に確かめてみると、まさにその寺に何年も働いており、犯罪者から立派に立ち直った真面目な老人で、このたびも日本アルプスに登山中の筈である、との回答であった。急遽、同寺の山本玄峰老師、中川宋渕師などから池田学長先生に連絡があり、池田さん自ら警察に貰い下げに出かけた。ところが、この老人は警察の留置場の中で、「自分がたとえ間違えたとはいえ、他人様の荷物を持ち込んだことには違いないのだから処罰を受けたい。私をここまでに叩きなおしてくださった玄峰老師に会わせる顔がないから、どうぞ刑務所に送って下さい」と言って、警察の人達が何と言おうともこれを聞き入れず、がんとして断食と坐禅を続けて動かなかった。そこで池田さんが身柄引受人となり、警察官や先生の説得でようやく出所し、先生が貰い下げての帰り道、私のところに立ち寄ったのであった。というのは、池田さんは旧制静岡高校から東大在学中にかけて竜沢寺の玄峰老師の下で修行し、宋渕師とも親交深い間柄であり、同人らから連絡を受けた先生がその老人の世話をするようになった、とのことであった。

 私がはじめてこの老人に会ったとき、彼は身体の小さい、腰の曲がった、人の好さそうなおだやかな風貌で、とても前科十数犯の者とは考えられなかった。断食のためか、その目は落ちくぼんでいたが澄みきっていたし、前科者によくあるようなおどおどしたところは少しもなく、またふてぶてしさもない。何日もの間、警察に留置されていた人間とは思われない静かな人柄がうかがわれた。

 それから間もなく、私は東京の裁判所に転勤になった。ところが、或る日、そのK老人から一通の葉書が届いた。それには、あのときお目にかかって以来、どうしてもお会いしてお話をしたくなったからお宅にお邪魔したい、とあった。それにしても、少し前にちょっとだけ会ったことのある前科の多い老人が裁判官の私を訪ねて来るというので、一種の戸惑いを感じた。ところが私から返事を出さないうちに、その翌日の夕刻には、近くの駅からとぼとぼ歩いて私の家を訪ねて来た。今晩泊めてくれというのである。驚いたのは家内と子供達である。四十数年間、刑務所で過ごしたという前科者が泊まるということに対する不安があった。ふろしき包みに自分の身にっけるもの一切を包んで肩に背負っている。どう見ても一介の浮浪者のいでたちであった。

 私宅では彼を招じ入れて、お風呂に入ってもらい、夕食を共にした。食事が終ると彼は長い苦難の生涯をぽつりぽつりと語り出した。

 K老人の語るところによると、彼は静岡県の、さる田舎のわさび畑の所有者である中流家庭のひとり息子に生まれた。生まれるとすぐ母は病死し、その顔も知らない。父は相場に失敗し、借金した金貸しに家屋敷もわさび畑も取られてしまった上彼が小学校二年のとき病死し、祖母も彼が小学校四年のとき、卒然と死去した。一人の身寄りも無くなり、かつて自分の家の作男をしていた者のところに厄介になっていたが、あるとき学校で彼を馬鹿にした学友とけんかして怪我をさせたことから学校では厄介者扱いをされるようになった。爾来、学校では事あるごとに白い眼で見られ、学校へ行くのがいやになり、今日でいうところの登校拒否を重ね、とうとう作男の家を飛び出して上京した。あちこちうろうろと泥棒の手先などさせられているうちに窃盗で刑務所に入り、それからというもの、つめたい郷里の学校やそこの土地の人達に対する恨みから、自分のいた小学校に泥棒に入り、教員室を荒らして入獄した。その後も刑を重ねること十六犯、最後は強盗傷人の罪で網走刑務所に送られ、終戦後間もなく同刑務所を仮出獄したあと、山本玄峰老師という高僧にひろわれて寺男となり今日に至っている事情など、こまごまと語ってくれた。

 「あの寺で玄峰老師による御世話を受けて、はじめていくらか人間らしくなりました」というのが、彼の結論であった。七十歳を越えた彼には、修行に励んだ老僧にも似た姿がうかがわれ、食事をするときの態度、彼の懺悔の話しぶり、今日では誰一人憎むことも恨むこともなく、ひたすらに仏に仕える彼をそこに見たのである。私は彼の話を聞いているうちに、あるときは手を合わせて拝みたいような気持にさえなることもあった。そこには前科者という肩書も裁判官という肩書もなかった。夜を徹して話したあと彼を寝室に案内した。

 ところがその翌朝である。夜明けと同時に彼の部屋に行ってみると、その姿はどこにもない。ベッドは昨夜敷いたままになっている。彼が穿いてきた草履もない。さては夜半にこっそりとどこかに逃げたものかと思い、ビクトル・ユーゴーの小説がちらっと脳裡をかすめたものである。それでもどこかにおらんかと思い、裏の戸を開けてみると、庭の方でゴソゴソと音がする。見ると庭の隅で草取りをしている彼の姿が見えた。寺で習慣となっている早朝の作務に励んでいたのであろう。無心に草を取っている彼の姿は、まことに美しいものであった。一瞬にしろ、彼を疑ったことがなんとも恥しくなった。

 彼は私の家に二泊して、寺に帰って行った。爾来、彼は自分の楽しみを、拙宅への訪問と、毎年の日本アルプス登山と、俳句に託していたもののようである。俳句は飯田蛇笏先生の「雲母」に属していて、毎月のように句作を添えて便りをくれた。

 その後、私が時折り竜沢寺に玄峰老師や宋渕師を訪ね、Kさんのことが話題になると、彼が実に立派な人に立ち直り、寺の内外の掃除から禅堂に出入りする外人の世話にいたるまで、他の人では出来ないような捨て身の仕事振りであることを聞かされた。そして私と彼との間には世俗的立場や肩書きを抜きにして、裸かのつき合いがつづき、お互いに良き友人として、また隣人として長い聞の交際をつづけてきた。

 彼は最後には八十歳を越え、老齢のため、何より好きな日本アルプス登山も出来なくなり、私の家に来たときも、もはや早朝の作務も出来ないほど衰えていた。私達はお互いに別れの近いことを感じた。いつも泊まる部屋には私が大事にしていた木彫りの無我童子があり、それを拝むのを何よりの楽しみにしていることを知っていた私は、彼が最後に私の家を去ってゆくとき、記念にその木彫りを差し上けた。彼は涙を流して喜び、「本当にうれしいことです、大事にして拝んでゆきます」と言って抱きかかえて行った。私は心の中で密かに彼との別れを惜しみながら、背を丸めて去って行くその後姿を見送った。

 その後、寺男としての仕事も無理となり、友人の家に世話になり、生活保護を受けながら、無我童子と共に静かにその生涯を閉じたのである。

(昭和六十年五月)