● ホストファミリー体験記(最終回)

工藤涼二(千葉地裁) 

 今回は,今なお印象深いオーストラリアの原住民いわゆるアボリジニの2人についてお話ししようと思う。ポール・サンビとロバート・エギントンという名で,ポールは64,5歳で部族の長であり,ロバートは40代半ばの各部族の連合体の書記長というような立場の男だったと記憶している。阪神大震災から数年経った1月に1週間ほどわが家に滞在したのであるが,その経緯は次のようなものであった。すなわち,彼らはその前年だったか,国際マイノリティ年間の催しでアイヌ民族との連帯を目的として北海道に来ていた。そのころ,あるアメリカ人女性作家がアボリジニと数ヶ月間共同生活を送ったとして,アボリジニの生活につきノンフィクションを著したのであるが,その中で彼らに対する誤った記述があり,それがアボリジニに対する偏見を助長するということで抗議活動をしていたところ,その作家は一旦は誤りを認め,今後は本の販売も中止し,それまでの収益はすべてアボリジニの活動のために寄付すると約束したにもかかわらず,それを守らずにいたのであるが,丁度その時,日本のグリーンピースの招きに応じて講演活動のため来日すると知り,急遽抗議するために日本に来ることになった。その作家の講演活動は主に関西であったが,彼らは北海道には知己を得た方々がいるものの関西方面には誰もいなかったので,アイヌの方を通じてステイ先を探していたところ,神戸日豪協会の紹介でわが家に来ることになったというわけである。彼らが来てからは,日本においてアボリジニにつき研究している方々も来られて,私が夜遅く帰っても皆で会議をしていて,わが家であるにもかかわらず,私の方が「どうぞ,どうぞ」と招き入れられる始末であった。

 閑話休題。彼らは無論日本語は話せず,英語もいわゆるオージーイングリッシュだったので結構大変だったが,それ故に面白い体験もできた。最初の晩に夕食を食べながらロバートがアボリジニに関する問題点について雄弁を振るっていたのであるが,翌朝体調を崩した途端「これは何らかのたたりだ。」といって,当日大阪で記者会見が予定されているのに布団から出ようとしない(因みに真冬だというのに彼らはパンツ一つで寝ていた。)。しかし,熱はないし,吐き気もないようなので,「単なる食べ過ぎ」と見抜いた妻が「皆が待っている。一体何しに来たのか。」などと叱りとばしたところ,突然「行く。」とすっくと立ち上がったのは傑作だった。後で,「ミセス・クドウはお母さんみたいだ。」と通訳の人に言っていたらしい。歳もそう違わない2メートル近い大男なのに,である。また,(1)家に上がるときは靴を履いたままではいけない,(2)お風呂の中で体を洗ってはいけない,と注意したところ,確かに靴は脱いだが,今度は庭に出るときも裸足で出て,そのまま入ってくるようになった。また,風呂についても「ベリーカンファタブル!」と言って上がってたので続いて入ろうとするとお湯がない。これは「栓を抜いてはいけない。」と教えなかったこちらが悪いというべきであろう。

 ポールは,私達のために赤や青の絵の具でボディペインティングをして「カンガルーダンス」や「エミューダンス」を披露してくれた。見ようによっては噴飯ものなのだが,本人らの弁によると「神に捧げる神聖な踊り」というので笑うわけにもいかず困った。空手映画が好きだというので,最後の秘にレンタルビデオ店に連れて行くと,香港ものを5本ほど借りて,言葉も分からないのに「ウホホ,ウホホ」とご機嫌で見ていた。ロバートは,デジャリブー(と私には聞こえた。)という2メートルくらいの民族楽器(聖なるもので女子どもは触ってはいけないというので,わが家の床の間に飾っておいた。)を吹いてくれたが,循環呼吸(口の中に溜めた空気を吹き出す瞬間に鼻から空気を吸い込む呼吸法)で20分くらい全く音が途切れないのには本当に驚いた。

 短期間だったが,別れるときはハグし合って名残を惜しんだ。関係者がその後オーストラリアに行かれたそうだが,2人とも私達のことを懐かしそうに話していたそうである。私はまだオーストラリアには行ったことがないので,是非そのうち訪れてみたいと思っている。

 以上のほか,これまでわが家を訪れた外国人は,ベトナムやカンボジアからの研修生(ポルポト派に家族5人のうち4人が殺され,彼一人が生き残ったそうである。),ドイツ人など十数人に及ぶ。こういった話をすると,よく「大変でしょう。よくされますね。」と言われることが多い。確かに大変な面もあるが,それは妻の方がずっと大変であって,私は家の中でだらしない格好でいないようにするだけで,特別どうということはない。言葉も,彼らは日本語を学ぶために来ているのであるから,むしろこちらがあまり話せない方がよいのである。

 それに文化の違いも実際に感じることができる。例えば,日本では冷めた料理を出すのは誠に失礼に当たるが,ビルマでは逆に熱いまま出すのは作法に反するそうである。というのは,ビルマ(に限らないが)では手で食べるため,冷めていないとすぐには食べられないからである。また,言葉や肌の色は違っても何となく心は通じ合うものだということも実感できた。それに色々な国に自分の知人がいるということを思うだけでも楽しいし,それらの国々のニュースも自然と身近に感じられるようになる。

 少し注意してみると,周囲にはホームステイ先を探している多くの機関がある。ホストファミリーを希望する家庭が増えれば,より多くの外国人がわが国を深く理解してくれるようになり,結果として国際親善にも貢献できるものと思う。もし,興味を持たれた方がおられたら,是非一度体験されることをお勧めしたい。
=終わり=
(平成19年2月)