● 弁護士任官どどいつ(14)
竹内浩史(東京地裁) 
「すべて判事は 良心的に 独り悩んで 裁判す」


憲法76条3項「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」をどどいつに翻訳すれば、こうなると思う。それでは、ここにいう裁判官の「良心」とは何か。7月15日、大阪での例会に萩屋昌志教授(龍谷大学)をお招きして研究報告をしていただき、メンバー裁判官9名、サポーター・ファンクラブ6名が参加して討論した。憲法の教科書に載っている「客観的良心説」と「主観的良心説」の対立の話である。教授は、新憲法下での議論の潮流を、「法解釈の客観性、最高裁判所判例の権威を強調」する流れと、「裁判官の主体性、判例による法創造を強調」する流れとに大別して整理された。他方、「実体的なとらえ方」と「心構えとしてのとらえ方」の違いという検討なども可能であると分析された。


「日本の判事が 嫌いなものは 嘘と怠慢 不誠実」


そこで、私の持論も述べさせていただいた。「客観的良心説」が通説のようになっているが、「主観的良心説」も見直してはどうか。憲法76条3項を素直に読めば、憲法19条(思想及び良心の自由)の「良心」と同義に解するのが法典の解釈としてはむしろ自然である。「客観的良心」では、意味不明か、「この憲法及び法律にのみ拘束される」と意味が重なってしまう。ただし、私のいう「良心」はあくまで「思想」とは区別されたものであり、例示すれば、「正直」「誠実」「勤勉」といった、まさに「良心」的な価値観である。裁判は、こういった「良心」の基準に照らして勝つべき者を勝たせようとするものであって、ただし、その理由は憲法及び法律の縛りに従って説明するというのが本質ではないか。「正直者が馬鹿を見ない」「いいとこ取りは許さない」「まじめに働く者が報われる社会の実現をめざす」裁判というのは、そういうことではないのだろうか。


「判事の主観は こういうものと とても客観 的意見」

「およそ判事は 客観的に こうあるべきだと 主観述べ」

「判事の良心 十人十色 みんな違って みんないい」


そんな私の説に対して、異論・反論・オブジェクションが相次いだ。それは、むしろ「客観説」ではないのか、などと。それぞれの参加者の「良心」観が披露され、そのどれもが、なるほどと思わせるものだった。確かにそう言われてみれば、私の「良心」の内容はあまりにも普遍的過ぎて、それ自体はほとんど異論の余地のないようなものである。常識的な裁判官の間では、さほどの差は出ないかも知れない。ただ、私が疑問を抱いたのは、一人歩きした「客観的良心説」が、自分でとことん考えない「ヒラメ裁判官」あるいは「金太郎飴裁判官」を産む土壌になっていないか、ということであった。萩屋教授も、「客観的良心説」と「主観的良心説」との間にはどれほどの違いがあるか、という問題提起をされた。議論をしているうちに、両説の長所を融合する方向がいいような気もしてきた。


「良心従う 裁判官に 良心ない人 不適格」


私が述べたような「主観的良心説」の問題点は、曲解されると、かつてのような「偏向裁判官」攻撃や「公正らしさ」論に根拠を与えることになりかねない点である。しかし、もしも、当事者や上級審に多大な迷惑をかけることを顧みず、手抜き判決を繰り返し、それを正当化するような人物を誤って裁判官に任命してしまったら、10年の任期終了時には不再任とすべきであろう。それは、憲法76条3項が裁判官には当然あるはずと予定している「良心」を持たないという意味で、まさに「裁判官の資質を欠く」不適格者だからである。それほど極端な事例ではないとしても、10年間の裁判の実績を積み重ねる中で、国民の多数から「この裁判官はおかしいのではないか」と一致して思われたとしたら、再任の可否が問題となることは避けられないようにも思う。しかし、その時に、裁判官の「独立」の方は大丈夫なのか。とても難しい問題である。



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(平成18年8月)