● ある遺族の悲しみと憎しみ
棚田の案山子 
 「心にナイフをしのばせて」(奥野修司,文芸春秋社)を読む。昭和40年代に高校1年生の少年Aが起こした殺人事件の遺族のその後の30数年を取材したルポである。当時マスコミを騒がした有名な事件であり,近時,社会を揺るがした大事件と似ているとしてまた思い起こされている。

 被害者はAと同じ高校の同級生である。突然に降りかかった息子の死,兄の死に,その後の人生を苦しみ続け,翻弄され続けた家族の物語はまことに重い。しかし,その数十年,両親にも妹にも加害者に対する憎しみの情は意識の奥に潜んで,表に出てこなかった。ひたすら最愛の息子,兄の非業の死を悲しみ,思い出だけが遺族を苦しめてきた。

 被害者の妹が語る。「母の中に,恨みがないわけではないと思う。それより,なんで自分はこんな思いをしないといけないのかという,自分の運命への憤りのほうが強くて,恨みはその中に埋没していた感じがします。」「今も,母の心の中はそうです。でもそれは母のやさしさとも違うんです。これは私の想像ですが,自分とAを結びつけないようにしたんだと思う。兄が死んだことだけでも辛いのに,Aへの憎しみを膨らませるともっと辛くなる。わたしにはそれがわかるんです。本音を言えば,わたしだってAには二度でも三度でも四度でも,いや百ぺんでも死んでもらいたい。でも,Aを憎んだら,わたしもAと同じレベルの人間に墜ちてしまう気がするんです。」(230頁)

 遺族が30数年の時を経て初めてAと会おうとする最終章の場面がまた痛ましい。

(平成18年12月)