● アメリカの陪審裁判は信頼できるか
判事補・米国留学中 
 “The jury system puts a ban upon intelligence and honesty, and a premium upon ignorance, stupidity, and perjury.”(陪審制度は,知性と正直さに蓋をし,無知と愚かさと偽証を尊ぶ。)とは,かのマーク・トウェインの言葉である。作家の生きた19世紀後半のアメリカと現在のアメリカとでは,その社会状況は大きく異なる。にもかかわらず,こちらで一般市民と話をしていると,どうやらアメリカ人の多くは,今でも陪審制度に対して似たり寄ったりのマイナスイメージを抱いているらしいと気付かされる。

 一方,アメリカの法律家はどうかというと,とりわけ刑事裁判の分野では,多かれ少なかれ陪審制度を肯定的に捉えている人がほとんどである。裁判官は地位の高い公務員であるから,無意識的に国家(検察)寄りのバイアスを持ってしまう可能性があるという指摘や,1人の裁判官が頭の中で思い付く結論よりも,12人の陪審員がそれぞれの立場から喧々諤々の議論を経て生み出す結論のほうが信頼に足りるという意見には,説得力がある。時に,事件を陪審にかけるのはサイコロを振るようなものだと言われることがあるが,それよりも,たった1人の公務員に事実認定や量刑を委ねてしまうほうがよっぽど危険な賭けだというのである。

 一般市民と法律家とで,なぜこのような意識の差が出てくるのだろうか。ひとつには,裁判と無縁の一般市民の多くは,そもそも司法の果たす役割にあまり関心がなく,裁判というものを漠然とネガティブなイメージで捉えていることが挙げられる。加えて,大部分のアメリカ人は,我々が想像する以上に保守的で,どちらかといえば,お上の判断を尊重する傾向があるらしい。陪審員候補者として裁判所へ出頭するよう命じる召喚状を受け取ったアメリカ人が,まず最初に考えることは,「どういう口実をつけて陪審義務を免れるか」だそうであるが,事ほど左様に,陪審制度の趣旨は一般市民に浸透していないのである。

 だからと言って,アメリカの陪審制度が機能不全に陥っているというわけでは決してない。いやいやながら陪審員に選ばれた者でも,いざトライアルが始まって被告人と対面すると,自分の使命の大切さに思い当たり,ほぼ例外なく真摯に役目を果たすそうである。実際,私がある裁判所で傍聴した事件でも,トライアルが始まったとたん,それまで眠たそうだった陪審員たちの表情がガラリと真剣なものに変わるのに驚かされた。「アメリカの陪審裁判は信頼できるか」と問われれば,今のところ,私の答えは「イエス」である。

 裁判に対するネガティブなイメージと,お上の判断を尊重する傾向は,そのまま日本人にも当てはまりそうである。世論調査でも,裁判員をやりたくないという人が半数を超えている。しかし,心配することはない。日本人の真面目な国民性からして,いったん裁判員に選ばれれば,誰もがアメリカの陪審員以上に熱心に審理に臨むはずである。裁判員制度を成功に導くための鍵は,むしろ,一般市民が職業裁判官と対等に議論できる環境をどうやって作っていくかにあるのではないか。

(平成17年3月)