● 私のフィールド・オブ・ドリームス
工藤涼二(広島高裁) 
 昨年は、神戸に本拠地のあったオリックス出身のイチローの活躍で、アメリカの野球もずい分身近に感じられました。野球といえば、ケビン・コスナー主演の映画「フィールド・オブ・ドリームス」をご覧になった方もおられるかと思います。アメリカで広大なトウモロコシ農場を経営している主人公がある日「フィールドを造れ。そうすれば彼らが来る。」と耳元でささやく声を聞き、不思議に思いながらも畑の中に野球場を造ると、背高いトウモロコシ畑の中から、往年のメジャーリーグの名選手達が一人、二人と現れて来て、ついには試合を始めるのですが、それは限られた人にしか見えないのです。声はその後も続き、最後には「彼の痛みを癒せ。」というのですが、何のことか理解できないでいたところ、結局は、幼いころ父親に対する愛情に飢えていた主人公自身の心が癒されるという実にファンタジックな物語で私の好きな映画の一つです。私もこれまでの人生の中で自分の意思とは別の「声」の存在を感じるときがありました。

 私は、大学を卒業後、ある大手の化学メーカーに就職したのですが、満足感が得られず、自分の一生をかけるに足りる職業ではないのではないかとの感がぬぐえずにいました。そこで結婚をきっかけに転職を決め、2年で地方公務員に転職しました。地方公務員は、地域住民の福祉の向上に資するわけですから、今度こそは充実感が得られると信じていたのですが、どういうわけかやはり心の中で「これはお前の本当に求めていた仕事ではない。」との声が消えませんでした。悩んだ末に、学生時代あこがれたことのある法曹、とりわけ裁判官を目指して25歳(昭和50年)の11月1日から司法試験の勉強を始めました。ところが、結構忙しい職場に配属された上に子どもも次々と生まれ、更に共働きということもあって勉強時間もままならずなかなか合格できません。司法試験は、毎年1回実施されますが、5月の第2日曜日に憲法、民法、刑法の3科目についての「短答式」という選択式の試験があり、合格者は7月の「論文式」試験(当時は7科目)を受け、それに合格するとやっと10月の「口述式」試験を受けることができます。私は、何とか最初の短答式だけはクリアできるのですが、どうしても論文式が突破できず、受験生活も10年目を迎えました。精一杯努力しても希望が達成できないことはほんとうに辛く、悔しいものです。私も落ちる度に落胆し「もう駄目だ。あきらめよう。」と机から離れるのですが、本当に不思議なことに、1ヶ月ほどすると、心の中にどこからか「もう1年だけ頑張ってみよう。」という気持ちが湧いてくるのです。

 こうして挑戦を続けていたのですが、7度目の論文式も失敗したときは本当に落胆し、受験をあきらめるためにもまた転職しようと決意しました。そして、当時有望企業として急成長していたある企業が中途採用しようとしていることを知り、妻にも内緒でこっそり応募しました。一応の自信はあったのですが、書類審査で落とされたときは、さすがに惨めな気持ちでいっぱいになり、今度こそ立ち直れないと心底感じました。ところが、またしても1〜2ヶ月するとなにやら机に向かって法律書を読んでみようかという気持ちがふつふつと湧き出てきたのです。これには自分ながら何ともいえない神秘的なものを感じました。そして、その翌年の9月末に、信じられないことに論文式の合格通知が配達されました。極度に緊張しながらも単身で上京し、10日間にわたる口述式試験を何とかこなして自宅に戻り、法務省で行われる最終合格発表を待ちましたが、私は一人で勉強していたため、連絡をくれる人もありません。ですから、翌日の朝刊で確認するしかなかったのですが、さすがにその夜は1時間ほどうとうとしただけで布団の中で悶々として過ごし、新聞が来た気配に飛び出したりしたものですから、配達の人に「お早いですな。」と驚かれてしまいました。そして新聞紙上で自分の名前を見た時は、本当に肩の力が抜けたことをよく覚えています。新聞を持って眠っている妻のところへ行き「受かったよ。」と告げると「もう合格通知が来たん?」などと寝ぼけたことを言っていました。最終合格の日は35歳(昭和60年)の10月31日で、転職してから12年、勉強を始めてからきっちり10年が経っていました。

 先に書きましたように、私はもともと裁判官を目指していたのですが、年齢も36歳になっており、その後2年間(現在は1年半)の司法修習生のときには「裁判官にならないか。」との声は全くかかりませんでした。そのため、次に希望していた弁護士になったわけですが、なってみますと弁護士の仕事はやりがいがあり、本当に充実した生活を送ることができました。気がつくと、昔聞こえていたあの「声」はすっかり消え去っていました。

 そのようにして誇りをもって弁護士として夢中で活動していたわけですが、5年ほど前から、日弁連が提唱している弁護士任官運動が高まりをみせてきました。わが国の裁判官は、英米のように弁護士の中から任用される法曹一元制度とは異なり、最初から裁判官として採用されるのが殆どなのですが、これを少しでも変えようとの狙いをもったものでした。私も少しは興味はありましたが、弁護士業務を面白く感じておりましたし、また、実際に事務所を止めることは、職員や多数の依頼者のことを思うと簡単にできる話ではありません。ですから、私も現実に応募することなど考えられませんでした。ところが4年前の5月、弁護士会から「東京で行われる弁護士任官シンポジウムに行く予定の弁護士が行けなくなったので代わりに行ってくれ」との依頼が来たのです。私は普通、裁判の入っていない日は年に数えるほどしかなく、日に5〜6件の裁判が入っているのが常でしたが、どういうわけかこの日だけは空いていたので断ることもできず行くことにしました。そこで、ある弁護士任官経験者の方がとつとつと「この意義ある活動に引き続いて参加して欲しい。」と訴えるように話されるのを聞いた時、突然「裁判官になろう。」との気持ちがあふれてきたのです。それは自分の意思ではなく、あたかも「裁判官になることこそが本当の使命だ」との「心の声」に素直に従ったという感じの一瞬の出来事でした。

 今思い返しても、本来行くべき弁護士がその日に都合が悪くならなかったら私に依頼は来なかったはずですし、その日私に通常どおり1つでも仕事が入っていたら東京に行くことはできませんでした。そうすれば任官を決意することもあり得なかったことを考えると、この間の出来事は本当に不思議でしたが、まだ受洗をしていなかった私はそれ以上のものには思い至りませんでした。しかし、今は、偶然以上の「力の存在」ないし「意思の存在」を強く感じています。これまで歩んできた半生涯を振り返る時、とてもそれを自分の意思と力で切り開いてきたとは思えないからです。私は本来意志薄弱で、自分で決めたこともすぐに破ってしまうことの多い人間です。そんな私が10年も一つのことを目標として継続することなどできるはずはありません。ですから、おそらくこれは神が私にそのようにせよと命じられたのでしょう。このようにして私は3年前の春に裁判官となり、広島に赴任して来ました。

 ただ、神の意思によったとはいえ、50歳を超えて慣れない仕事に変わることには大きな不安が伴います。特に日本の裁判所では前述のようにいわゆるキャリア組の裁判官が大半であり、弁護士任官者はごく少数ですからなおさらのことです。私も実際に任官するときには大きな不安にさいなまれましたが、妻の励ましと「神によって遣わされたのだから、決して私に負えないものはないはずだ」と自分に言い聞かせて足を踏み出しました。

 裁判官の職務は、同じ法曹とはいいながらやはり弁護士と異なる面も多く、とまどうことが多くあります。これからも迷ったり悩んだりすることでしょう。しかし、そのような時にも、恐れず、力を尽くして与えられた使命を果たしたいと考えています。


「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記第1章9節)

(平成17年1月)