● 北欧裁判ウォッチング [PDF]

森野 俊彦 (和歌山家裁判事) 

 オスロの法廷で  おそらく何らかの裁判が行われているであろうと期待して、法廷のドアをあける。視界の真正面に法壇があり、裁判官がひとりすわっている。法廷にいる他の人が、突然のちん入者に驚き、いぶかしげに私の方を見る。厳しい視線を感じつつも、私は一瞬のうちに、法廷の様子をそれなりに理解する。向かって右側が被告人と弁護人。被告人が拘束されていることは、日本でいう拘置所の職員らしい、見るからに頑丈な(とても逃げる気にはならない)男性が被告人と法廷のドア(外部に通じるのは私が入ったそのドアだけだ)の中間位にすわっていることから明らかだ。そうすると、左側は検察官に違いない。傍聴席は長さ二メートルほどの長椅子がそれぞれ二列、左右両側におかれている。右側の長椅子には、中年の女性と年老いた女性がすわっている。私はすばやく、空いている左側の長椅子にすわった。裁判官は、私を単なる傍聴人と感じ取ったのか、中断していた仕事を再開し始める。証人席には誰もおらず、どうやら、たった今終わった証人の証言を要約している途中であったようだ。一〇月四日、私のオスロでの法廷傍聴がこうして始まった。
オスロの法廷で  

 夏休みはとうに終わっているこの時節、本来、和歌山で仕事をしているはずの私が、ノルウェーはオスロの裁判所に姿を現しているのにはわけがある。七月中ころ、日弁連がノルウェーの裁判事情を視察に行くという話を耳にした。ノルウェーは、デンマークとともに陪審制と参審制を併用していることで知られている(但し現在では陪審は高裁において六年より長期の自由刑にあたる犯罪についての否認事件に限られている)。そして、参審制の雄であるドイツが職権主義(刑事裁判における真実発見の責任は裁判所にあるとするもので、訴訟の進行はもちろん証拠調べなども裁判所が主導する)であるのに対し、ノルウェーは当事者主義(刑事裁判における立証の責任を当事者に委ねる)のもとで参審制を採用しているので、このほど裁判員制の導入を決めた日本での議論に大いに参考になるのでは思い、できれば参加したいと考えた。

 裁判官は、五月の連休や夏休みは別として、普段の日は休暇をとっても外国には行けないことになっているのだが、裁判官になって一五年を経過した場合、一〇年に一回に限り一〇日以上の休暇をとることができることになっている。いわゆるリフレッシュ休暇という制度で、このときは、例外的に外国に行くことも許される。幸い、ちょうどその権利を行使できる時期でもあったので、私は、日弁連の視察に一部便乗する形で、北欧三首都(オスロ、ストックホルム、コペンハーゲン)の裁判所を見ることにした。ところが、九月一一日同時多発テロが勃発し、ちょうど一〇月初旬ころにアメリカのアフガン攻撃が始まるのではとの観測が広まり、日弁連の視察旅行は直前になって中止となった。だからといって、私の方は、すぐキャンセルとはいかない。それなりの準備をし、何より他の裁判官に無理をお願いしてスケジュールを調節したりしているし、仕事の都合もあって「権利」とはいっても現実に行使するのはかなり困難なのだ。少しは迷い、不安を拭えないままではあったが、予定どおり北欧に飛び立った。以上で、私が「ただの傍聴人」としてオスロ裁判所の法廷にいるわけがお分かりいただけたと思う。

 法廷では、裁判長の要約が終わり、検察官の論告、弁護人の弁論が行われている。かなり長時間にわたるものであるが、いかんせん、ノルウェー語を全く解せない私には、その内容は全くちんぷんかんぷんである。時間も長くなったので仕方なく、法廷を後にすることにした。

 私が見た裁判は、おそらく、被告人が起訴事実を認めた「自白事件」だと思われる。ノルウェーでは、一九五五年に刑事事件の第一審はすべて地方裁判所の参審制のもとで行われることになったが、自白事件は例外的にひとりの裁判官で行うことができるのだ。裁判官だけの裁判だけでは物足りなかった私は、翌日、市民が関与する参審裁判が行われている法廷を聞き出して、なんとか傍聴することができたが、残念ながら、そこでも内容はさっぱりわからなかった。雰囲気をつかめただけでも収穫といえるが、それでも、全く判らない言語が飛び交うなか、長時間いるのは疲れるし、限度を超えると苦痛になってくる。簡単に類推するのは危険であるが、専門家集団が、法廷で彼らだけが判る法律用語でもって応酬しているのを聞かされる市民の立場がかくならんやと、妙なところで思い知らされたのであった。


 ストックホルムの参審員

 次は、スウェーデン。スウェーデンは、表現の自由に関する事件について例外的に陪審制を持つけれども、基本的には参審制の国である。その歴史は約八〇〇年前までさかのぼるといわれている。

 ストックホルムでは、あらかじめお願いした通訳の方の手配で、ある暴行事件を起訴状朗読から判決言渡しまで、傍聴することができた。適切な通訳のおかげで、事件の内容もよく理解でき、最後は「無罪判決」が出るなど、興味深かったが、ここでは、内容よりも参審員についての感想を述べてみたい。

 スウェーデンの刑事裁判は、否認事件であるかどうかを問わず、裁判官一名、参審員三名で行われる。私が入った法廷では、若い裁判官(法服は着用しない)の左に女性書記官と女性参審員(高齢)、右側に男性二名の参審員がいて、一名は高齢、一名は中年である。女性はキャリアウーマンを卒業したような感じの人で、一方、高齢男性は、赤ら顔でいかにもお酒が好きそうな感じの人である。中年男性は特徴のあまりない「普通の人」というしかない人であった。私は審理が始まってまもなく、正直いって、「このメンバーで大丈夫かな」という感じを抱いた。暴行現場に居合わせたバスの運転手や犯人の引渡しを受けた警察官など、証人が次から次へと登場するが、検察官や弁護人の尋問の仕方やこれに答える証人の様子からして、記憶が曖昧で、かなり微妙な証言をしてことが窺える。それでも裁判官や参審員はあまりメモをとる様子はなく、基本的にはただ聴いているだけという状況だ。審理が進むにつれて(時折、小声で説明をうけて)私なりにも結論が結構難しいなとの思い始めたが、参審員の方は、一向にくたびれた様子を見せず、証言に耳を傾けている。それを見ながら、私は、参審員の方は思ったより裁判に慣れているのではと思ったりした。

 この「裁判に慣れるかどうか」という問題は、結構重要なポイントだ。市民がある日いきなり呼び出されて、生まれて初めて裁判に関与する場合、その参審員(来るべき日本の裁判では「裁判員」)は、すべてがもの珍しく、何も判らずに裁判官のいうままになってしまわないかいう危惧がある。その意味では裁判所に何回も出かけて、数多く裁判に関与し、いろんな裁判官と出会う経験を持てば、やがては裁判官と対等に議論しうる実力を持つに至るといえるであろう。しかし、一方で、あまり裁判に慣れてしまうと、有罪判決に関与するのが習い性になってしまい、本来の「市民」ではなくなってしまうという問題が出てくるのだ。

 この問題はいずれゆっくり考えるとして、ストックホルムの裁判所構内に入るや、いかにも参審の国だと思い知らされたことがある。北欧ではどこでも、冬は寒さが厳しくコートが必携である。肌寒さを感じたこの日、私も用心してコートを羽織って出かけ、裁判所に入るなり正面入り口脇にある「コート掛け部屋」に入ろうとすると、通訳の方からそこは「参審員」専用のコート掛け部屋ですと注意されたのだ。それだけ、参審員が裁判に占める比重は大きく、裁判所の血肉となっていることは間違いないと思った。


 コペンハーゲンの女性裁判官

 コペンハーゲンでは、現地の大学の研究員をされているMさんのお世話で、やはり参審裁判をみることが出来た。デンマークでは、求刑が四年以下の否認事件と、自白事件は市裁判所が第一審としてこれを扱い、前者が裁判官一名、参審員二名の参審裁判となる(自白事件はノルウェーと同様、裁判官のみによる裁判)。

 朝九時ころ、旧市庁舎の裁判所に行くと、ここではきょうはやっていないということで、別の建物の五階にある法廷に行く。古い建物がそのまま裁判所になったので、どうしても法廷の数が足りず、普通のビルにも法廷をつくったという。法廷で待機していると、被告人らしい若者が恋人とおぼしき女性とやってきてそわそわと落ち着かない。そして緊張と心細さをうち払うべく、恋人とキスをする。いかにもデンマークらしいなと見ていると、裁判官が登場した。女性裁判官で、二名の参審員も女性、みると書記官、検察官も女性だ。男性は被告人と弁護人だけ。被告人は、このような女性ばかりの裁判所の構成を見てどう思っただろうか。

 被告人は、サッカーの試合を見た帰り、応援していたチームが勝ったことで興奮し、おりから群衆の整理に来ていた警察官等に向けて、ペンシルピストル(漁師が遭難したときなど緊急信号用に使うもので火の玉となって飛ぶ)を発射したということで公務執行妨害罪等に問われている。審理が開始して早々、被告人が自分の持ってきたビデオテープを持ち出し、自分が当夜現場でビデオに写っているので見てほしいと言い出したのには驚いたが(結局検察官も反対せず皆でそれを見た)、基本的には証人の証言だけが証拠となるのだ。書面に慣れているというか、供述調書を重視する日本の裁判とは大違いだが、まもなく、日本の裁判員裁判でも証人調べが中心になることは間違いない。このように「読む」裁判から「聴く」裁判になる以上、当事者としては、これに対処する訓練も必要となってくるであろう。さて事実調べが終わり、検察官の論告、弁護人の弁論も終わった。裁判官と参審員は別室に下がり評議、およそ二〇分ほどで再登場。結論は有罪で、奉仕活動を命じる判決であった。

 裁判長たちが退廷したあと、傍聴席に残っていると、書記官がやってきて、裁判長が今の事件を説明するので来ないかという。喜んで法廷横の部屋に赴くと、裁判長が自らコーヒーをいれてくださり、どうして有罪になったかを懇切に説明してくださる。外国の裁判所を訪れていつも思うのは、裁判官が概して気さくで、遠来の客に対して心を開いてくれることだ。なにか聴きたいことがないかといわれるので、「今日は、職業裁判官も、参審員も、検察官もすべて女性であったが、こういうことはよくあるのか」と聴いてみた。すると彼女は、ちょっと驚いた表情で「そんなことは意識もしなかった」といわれた。そういったことに拘る自分が、まだまだ遅れていると思い、少し恥ずかしかった。

 デンマークは、第一審で陪審と参審の両方が行われている珍しい国で、求刑4年以上の否認事件は、高等裁判所を第一審とする陪審裁判である。せっかくだからということで、少し離れた東高等裁判所に行くと、ヘロインの不法所持の事件が行われていた。裁判官三名、陪審員一二名が並ぶ法廷は壮観でさえあり、念願の「陪審事件」を見ることができて嬉しかったが、審理は始まったばかりのようなので、「見物」だけで満足することにした。


 心暖かき人たち

 こうして、北欧の裁判を少しばかり傍聴することはできたけれども、文字通り垣間見たにすぎず、残念ながら、これでもって、市民参加はこうあるべきだと云々することは早計であろう。日本には日本の事情を考慮する必要ももちろんあろう。それでなくとも、今回はリフレッシュ休暇であって、これ以上深入りするとリフレッシュでなくなってしまう(出発前、今回の旅は「勉強二割、観光八割」でいこうと、変な心づもりをしていた)。

 そうしたわけで、あとはほとんど観光に時間を費やした。予想したよりも暖かい日々が続き、もっぱら各国の首都に滞在しただけではあったが、北欧の空気を満喫してきた。印象に残った点を思い出すまま述べてみよう。オスロでは、トラムに乗ってフログネル公園に出かけた。お目当てはノルウェーを代表する彫刻家ヴィーゲランの彫刻群である。子供を優しく抱きしめる母親、熱き口づけを交わす恋人同士、子供を高く掲げた力強き父親、その姿はさまざまだが、躍動感というか、人生の局面をそのまま表現する力に圧倒される。なかには、二人の老人がお互い黙りこくって向き合っている姿もある。その沈黙の意味をかみしめつつ、公園を歩いていると、朝の散歩をする夫婦連れに出会った。向こうから英語で「東の国から来たのではないか」と古風な質問を受けた。日本から来たと答えると、日本からノルウェーに来るのは珍しいといわれる。こちらも「ノルウェーが好きです」と返すと、破顔一笑、やさしく握手の手をさしのべられた。

 オスロからストックホルムまで、またストックホルムからコペンハーゲンまで、今回はともに列車にしたのだが、いずれも素晴らしかった。どちらも六時間以上に及ぶ長旅であったが、車窓からみえる白樺林、湖沼、あるいは馬や羊が仲良く草をはむ光景には心が和んだ。「汽車の窓からハンケチ」は振らなかったけれども、高原列車の旅の気分を十分に楽しんだ。スウェーデンとデンマークの間のエーレ海峡も、列車で渡った。生まれて初めて「国境にかける橋」を渡った。

 ストックホルムは、北欧のベニスといわれるだけあって、どこも素晴らしい景色だ。不思議に思ったのは、社会福祉が充実しているはずなのに、結構「ホームレス」がいることである。駅のベンチに座っていると、人品いやしからざる人が、ゴミ箱をあさっては瓶や新聞をとろうとしている。あとで研究員のMさんに聴くと、「おそらく趣味でやっているのでは」といわれたが、それでもやはり哀れであった。別の日、観光シーズンはすぎていたが、郊外のドロットニンゲン宮殿が美しいというので、地下鉄とバスを乗り継いで出かけた。地下鉄をおりたあと、どのバスに乗ってよいかわからず、たまたま来たバスの運転手に聞くと、巨体をゆらしながらわざわざバスを降りて、正しい停留所を教えてくれた。みんな親切だ。宮殿では衛兵が真面目な顔をして不動の姿勢を維持していたが、カメラを向けて一緒に撮していいかと尋ねると、ニコッと笑って応じてくれる。その心意気がまた嬉しい。また同地ではガムラスタンという、一二五二年に築かれた城壁が出発点となり宮殿や境界など古い建物群が残る地域に宿をとったが、ここがまたいい。石畳みの道を歩いていると、中世の音がする感じなのだ。かの地を訪れる機会がもしおありの場合、是非そこで投宿されることを勧めたい。

 コペンハーゲンでは、有名なストロイエを何度も往還した。世界一といわれる歩行者専用ショッピングストリートを歩いていると、心斎橋をぶらりぶらりとしているのと全くかわらず、異国に来ていることを忘れるほどだ。町ばかり歩いているのにあきて、アンデルセンの生まれたオーデンセの街まで足を延ばす。こじんまりした、落ち着いた街である。アンデルセンの家で、家内が売っている絵はがきをみて驚嘆の声を挙げる。二〇年以上も前、家内の父がここを訪れて嫁いだ娘のおみやげにと買い求めた絵はがき帳が昔のまま、売られているのだ。こうした何気ないところにも、その国の風格といったものがしのばれる。そういえば、アンデルセンの家を出て、博物館に行くべく地図を広げてみていると、すれ違ったきれいなお嬢さんがわざわざ引き返してきて、道を教えてくれた。みんなみんな余裕をもって生きているのがうらやましい。こうして、旅の一こま一こまを思い出していると、たった二週間の旅であったが、懐かしさがこみ上げてくる。旅はいいものだとつくづく思った。最後に、旅の道すがら、戯れにつくった歌を厚かましくも披露して、今回のたよりを終えることにしたい。

   画学生に似顔絵描かせ笑む妻の
         肩にオスロの夜気忍び寄る

   朝まだき公園を歩めば人ありて
         東の国から来たかと問えり

   テロ起こりしはいずこのことか国境の
         町を列車は静かに走る

   白樺と湖沼(みずうみ)ばかりの世界抜けて
         列車は早しストックホルムへ

   思いしよりは小さけれどもほのぼのと
         心なごめりアンデルセンの家

   ひそやかに反戦のうた流れたり
         オーデンセなる市庁舎の前

   泳いだと胸張り告げる老人(おいびと)の
         温(ぬく)き手のひら風寒き浜

   石の家に倦みし心に風とおる
         小さき木の家ドラウアーの町

   村びとはビール飲み干し異国人吾れに
         ハブ・ア・ナイス・ディと笑顔で告げぬ

 (この原稿は、既に,法学セミナー2002年1月号の「サイクル裁判官の四季だより」に掲載されたものです。)