● ある勾留却下

簡易裁判所判事  白山 次郎

 簡易裁判所は,民事事件だけではなく,刑事事件も処理している。

 地裁の刑事事件と異なり,簡裁の多くの事件は,略式命令といって,法廷を開くことなく,書面審理だけで罰金の支払いを命じるもので,その大半は,交通事故等の自動車運転過失傷害や道路交通法違反である。

 また,逮捕・勾留,捜索差押といった犯罪捜査の段階での令状請求の処理は,意外と地裁ではなく,簡裁の裁判官が処理していることが多い。

 ある事件について,私の勤務する簡易裁判所に勾留請求があった。刑事訴訟法によると,被疑者を逮捕した警察官は,逮捕から48時間以内に,事件を検察庁に送致しなければならず,送致を受けた検察官は,身柄を受け取ってから24時間以内に裁判官に勾留の請求をするか,身柄を釈放するかいずれかの判断をしなければならないとされている(刑事訴訟法203条1項,205条1項)。警察官が,車で検察庁から裁判所に被疑者を連れて,捜査記録と勾留請求書を持ってやってくる。

 一件記録を一読,検討してみて,私は「う〜ん」と腕組みをしてしまった。

 簡易裁判所に請求されるような事件は,比較的,軽微で簡単な事件が多い。この事件も一応,「暴行」被疑事件となっているが,私には「こんなことで,勾留までしないとダメかなぁ・・・」と思えてならない。勾留となると,被疑者は少なくともこれから10日間,留置施設にとどめ置かれて取調べを受けることになる。

 記録を何度も読み返す。勾留の要件(逃亡のおそれ,罪証隠滅のおそれ),勾留の必要性,今後の捜査の見通し,犯行態様,動機,背景事情,身上関係,いろいろなことが頭の中を駆けめぐる。考えろ,考えろ,・・・!検察官や警察官にもいろいろと疑問をぶつけて,話をしてみる。本当に勾留しないとダメか。どうだ,考えるんだ!右からも左からも,後ろからも前からも,上からも下からも・・・。

 しかし,どう考えて,これは勾留の必要性を認めるのが難しい。却下しようと腹をくくり,被疑者の自宅に電話をしてみた。うまく母親と話ができ,身柄引受の誓約をしてもらい,ファクシミリで身元引受の誓約書を送ってもらうことができた。

 いつもなら,あっという間に勾留質問(刑事訴訟法61条)が行われ,勾留状が発布されるのに,いつまで経っても勾留質問すら始まらないので,被疑者を連れてきた警察官が不審そうに何度も窓口に顔を覗かせる。

 ようやく,勾留質問室に入り,被疑者に対し,勾留請求があったことを説明し,氏名,住所,生年月日,職業などを尋ねたあと(人定質問),黙秘権及び弁護人選任権のあることを告げ,さらに被疑事実の要旨(彼がやったと思われている悪いこと)を読み上げる。そして,彼の弁解を聴く。これが勾留質問の手続の流れだ。

 形式的なことはそこまでで,その後,私は,どうしてこんなことになったと思うかとか,どういう仕事をしているか,いつ頃から今の仕事を始めたのか,家はいつ頃から住んでいて,毎日,どういう生活をしているかなど,勾留の必要性を判断するため,あれこれと尋ねる(事実の取り調べ)。

 「ふ〜ん,ご両親と同居しているんだね。」「あ,恋人はいない。友だちもあんまりいないのか・・・」「仕事は行っているんでしょ。」「派遣の仕事ね。毎日行っているの。朝8時30分から夕方5時まで。どんな仕事なの?製造業,工場のラインか・・・」「クビになっちゃう?やっぱり,そうか。」「ちょっと,変わってるって人から言われたことない?ある・・・。なるほど,自分でもそう思うか。」「今回は,ちょっとやりすぎたって思う?うん,そうか。」「もういい歳でしょ。ご両親も心配しているんじゃない?」「ご両親とは普段,どんな話をするの?」

 あれこれ尋ねながら私は心の中で思った。

 (やっぱり,身柄拘束はやりすぎだ・・・。勾留の必要はない。)

 私は,予め用意していた,出頭誓約書を差し出し,記載内容を説明して,きちんと守れるかどうか尋ねた。

 被害者をはじめとする事件関係者には一切,接触しない,事件現場にも行かないという点を説明していると,被疑者はきょとんとした顔で「無理っす,無理っす」とクビを横に振る。私は,驚いて「えっ,どういうこと?」と聞き返す。すると,彼は「僕は,今から留置場に入ることになっているので,そんなこと,出来ませんよ。」「いやいや,そうじゃなくて,釈放されたらってことですよ」「えっ,釈放されるんですか?さっき,検事さんがダメだって」私は絶句した後,気を取り直して諭すように「うん,だからね。ここは裁判所で私は裁判官,あなたの身柄を拘束するかどうかは,検事さんじゃなくて裁判官である私が決めるの。検事さんが,裁判官である私に君を勾留してくださいって請求してきた。だから,これから君に警察の留置場にいてもらうか,家に帰ってもらうか,今,いろいろと考えている最中。それで,もし,家に帰っても,君が余計なことをしないようにするって私と約束できるか聞いているの。」と優しく説明する。「あっ,そうなんですか。はい。それはもう,間違いなく,約束します。」「本当だね。君は,友だちと約束しているんじゃなくて,裁判官と約束してるんだよ。」「はい。」 やれやれと。

 最後に,私は彼に告げた。「私は,君が逃げも隠れもせず,今,約束してもらったように,被害者とかにも会わず,現場にも行かないで,ちゃんとあったことを警察の人や検事さんに話して,最終的に刑事処分を受けてくれると思うから,君を家に帰そうと思う。ご両親も心配しているしね。ただし,これは私の考えであって,検察官は私の判断に不服申立てをすることができます。その場合は,私とは別の地方裁判所の3人の裁判官が再び,私の判断が正しいかどうかを審理することになります。場合によっては私の判断を取り消して,君はそのまま勾留されて,やっぱり家に帰れないということになるかもしれないけど,いいね。判ったね。」

 出頭誓約書と勾留質問調書に署名押印してもらい,書記官と被疑者を部屋に残して裁判官室に引き揚げ,早速,勾留却下の理由を起案する。勾留の必要性がない理由を幾つか箇条書きにした簡単なものだが,却下すれば検察官からほぼ間違いなく準抗告という不服申立てがあるし,検察官はそこであれこれと理由を書いてくるから,こちらとしても,どうして却下したのか,その理由を明らかにしておかないと検察官に言いようにやられてしまう。理由を書くことが準抗告審で勾留するかどうかを判断する地裁の3人の裁判官(合議体)に自分の考えを伝える唯一の手段なのだ。少し手間がかかるが仕方がない。別紙をつけた勾留却下の決定に押印して,書記官に渡す。

 私が勤務することになった簡易裁判所では,そんなことは十数年ぶりのことらしく,私から簡単な決定書を受け取った書記官をはじめ,他の職員は興奮し,皆が口々に「却下ですか」「キャッカ」「キャッカだってよ」「どうするの,なにするの」「キャッカだ,キャッカ」だと声を上げ,お祭り騒ぎのようになった。私は「盛り上がっているところ悪いけど,この決定を検察庁に送付するぐらいしかすることないから。あっ,念のため,先に電話しておいて。」と余裕を見せて部屋に戻る。

 まあ,これだけ材料があるんだ,準抗告されても大丈夫だろう。犯行態様からすれば,おそらく起訴自体を見送ることになるのではないか・・・。

事務官が検察庁の職員に結論を伝えると「えっ,何ですって,もう一度お願いします,えっ,ナニっ?キャッカですかぁ!!」と相手の声が裏返っていたという。

 簡易裁判所は,街の裁判所,庶民の裁判所である。

 簡裁が,日本全国津々浦々,隅々にまで配置され,警察から逮捕状や捜索差押令状の請求を受けているのはなぜか。もちろん,憲法に定める令状主義を遵守するためである。つまり,国家権力が勝手に人々の身柄を拘束したり,家に押し入ってあれこれと探し回ったりすることを抑止するために,身分保障を受けた私たちがいるのである。わが街の裁判所(簡易裁判所)の判事は,英米法にいう「治安判事」というような役割,「護民官」のような役割を果たしているのである。街の人たちが勝手に捜査機関の手に落ちないように,我々がしっかり捜査機関の行き過ぎを止めさせる必要があるのだ。

 おいおい,そんなことぐらいで,私の街に住んでいる人を留置施設に入れないでくれよ,彼は逃げも隠れもしないだろうし,今更,罪証隠滅などしないし,できないと思う。それより,彼が留置施設に入れば家族は悲しむし,彼は職場をクビになってしまう,身分保障のある裁判官と違って,派遣社員なんて10日も20日も勾留されて出勤しなければ,もう来なくてもよいと言われるのが当たり前なのだから。そんなことをしなくても事実関係は明らかになるし,刑事処分は適正に下すことが出来る,なるほど,彼は悪いことをしたかも知れない,それなら,刑事処分を受けるのは当然である,しかし,それと身柄の拘束は別問題だ,彼を家に帰しても,その後の捜査で,自ずと刑事責任は明らかになるに違いない,そういう判断を私はしたのである。

***********************************

 その2日後,いつものように出勤すると,担当書記官が,気まずそうに裁判官室に入ってきて,「あの,裁判官。今朝,地裁からこれが届きました。」と言って1通の書面を差し出した。

 それは,準抗告審の決定書の写しであった。

 「主文 原決定を取り消す。」

 えっ,まさか・・・どうして・・・・・?素早く理由に目を走らせる。怒りと恥ずかしさが交錯する。写しを持つ手が少し震える。動揺を見透かされないように努めて明るく,私は「そうか,ダメだったか,いろいろと余計な手間を掛けさせて申し訳なかったね。地裁の合議体が決めたことなんだから,いいさ,いいさ。仕方がないさ。」と担当書記官に言った。宴の後の一抹の寂しさが広がっていく。

 書記官が退室した後,私は一人,部屋でそっとため息をついた。

 瞳を閉じて,静かに自分自身の胸のうちに問いかけてみる。

 自分自身の良心に恥じぬ判断であったか?誠実に,全力で取り組んだ結果か?他の方法はなかったか,何かやり残したことはなかったか?

 ふと,窓の外を見ると,細い糸のような雨が降り出していた。

 いつの時代でも,どんな社会でも,力というものは,雨が降るように,常に下へ下へと向かう。・・・傘が,傘が必要だ,人々が雨に濡れないように・・・。自分は傘のようになりたい。たとえ小さくても,丈夫な傘に・・・。

 「よし,まだ,大丈夫だ。また,今日も一日,頑張ろう。」


(平成23年4月)