● 裁判員制度ドラマ「家族」を観て
元刑事担当裁判官(サポーター)
 裁判員制度開始を目前にした5月18日の夜,ドラマ「家族」(TBS)を見た。悲惨な老人介護問題を取り上げ人間的なドラマでもあり,一般的にいえば女性裁判員の活躍する「面白い裁判ドラマ」であったが,裁判員制度が実施される段階のものとして評価すれば,作者の意図とは別に,裁判員制度反対の役割を果たすものと思われた。

 小説自体は読んでいないが,このドラマに限定して言えば,作者は,犯罪という人間ドラマは,公判前整理などという手続には収まりきれない深さを持っている,これを3日間程度の公判で終わらせようというのがそもそも無理である,と主張している。確かに,事件の真相は法律家の想像できないところにあるということもあるかも知れない。そこまでは同意できる。しかし,自らも老人介護に苦しむ一女性裁判員の推理力の豊かさに比して,法曹3者の無能振りはどうであろうか。ドラマ中の人物としては,みんなほとんど死んでいるに等しい。従来の裁判ドラマならば,弁護人が公判前整理の制約をかいくぐってでも活躍しなければならないところであるが,これもほとんど動いていない。一人の女性裁判員だけが裁判手続の枠もなんのそのスーパーマンとして大活躍しているのである。弁護人に活躍させ,裁判員がこれに同調する方が,もっと制度に沿った現実味を帯びたドラマになるし,制度に内在する問題点の批判にもなるのではないかと思われた。作者は,スーパーマンに活躍させることによって,制度の現実的可能性を否定しているのではないか。

 それにしても,裁判長がのっけから「公判前整理で争点と決まった「殺意」以外の点は問題にしてはならない」と宣言して,裁判員の自由な議論を封じているのは,余りにもひどい押しつけである。そして,この裁判長の態度は多くの裁判員に「裁判員制度は国民をただ利用するだけか」などと裁判員制度反対論者がよく言う台詞で反発されている。しかし,現実の裁判では,「法廷で取り調べた証拠のみによる事実認定」,「検察官の立証責任」や「無罪の推定」というような刑事訴訟法の基本概念は審理に入る前に概括的に,そして評議の段階において必要に応じて具体的に裁判長から説明されることになっているから,裁判員はこれを念頭に置いているはずなのである。しかし,積極的な女性裁判員にも「裁判長の冒頭の説明と矛盾しているじゃないですか」と反論させていないのは,作者にはその知識がないからかもしれないが,あるいはこれは特定の裁判長の考え方や訴訟指揮の問題ではなく,裁判員制度に本質的な欠陥と解しているからだろうか。これを見た国民の中にはおそらくそのように誤解した人も決して少なくないであろう。現にインターネットの「観劇レビュー&旅行記」では,「裁判員制度が持っている重大な欠陥をあぶり出した」とこのドラマを高く評価しているのである。

 ところで,その女性裁判員は,自己の苦い老人介護の経験をもとに,ホームレスである被告人が嘱託殺人の意図で被害者を殺害したのではないかと推理し,証人や被告人に対する尋問,質問によってその真相を法廷に引き出していく。これによると,被告人は,今後病状が進むと家族に迷惑をかけることを恐れ,死にたがっている認知症の被害者(老女)に頼まれ,これに同情して嘱託殺人をしたが,自分もこの世に生きていては親族に迷惑をかけると考えて,自ら強盗殺人をしたと言い張っているのである。女性裁判員の活躍振りは素晴らしい。しかし,問題なのは,女性裁判員はそのように名推理をしながら,結局被告人の気持ちを忖度して,嘱託殺人なら執行猶予の可能性があるのにこれを避けて,強盗殺人を認定することを決意し,そのように意見を述べていることである。そして,不思議なことにこのような法的思考に対する裁判長の指導もなされなかった。さらに,他の裁判員もこれに同調し,おそらく全く違う考えで有罪と考える裁判官らとともに,全員一致で無期懲役刑にしてしまったのである。ここでも「証拠に基づく事実認定」や「疑わしきは被告人の利益に」の観念は評議の前提にはない。公判前整理手続がどう行われようと,裁判員5ないし6人が,嘱託殺人の故意であった疑いが払拭できないと考えれば,裁判官が賛成しなくても,強盗殺人については無罪に出来たし,そうすべきだったのである。それなのに,被告人が執行猶予になることを望んでいないからといって無期懲役にした。多数の者がそう思いながら有罪に荷担したとすれば,人権無視も甚だしく,まさしく一種の冤罪である。そして,判決言い渡し後に女性裁判員が法壇上から,裁判長の制止も聞かず被告人に諭し,勧めている。「思い直したら控訴をしなさい」と。作者は一体どういう考えなのであろうか。これは反裁判員裁判キャンペーンの一つなのであろうか。いわく「裁判員裁判では,こういう冤罪も起こりますよ」と。

 国民の司法参加がそこに迫っている段階なのだから,このような国民に影響力のあるテレビドラマには,もっと適法な裁判手続を厳しく追及してもらいたいものである。このほかに実例を挙げれば,最後の公判期日の法壇上で,女性裁判員が被害者の長男を再度証人に採用するように提案し,他の裁判員も同調して強引に証人採用をさせているが,その手続はドラマ上は省略している。スーパーマンが活躍するのは,逆に言えば,一般人にはこのようなことは不可能と言っているに等しいが,これも,裁判員が裁判長に要請して評議を開いてもらい,証人採用の趣旨を明確にして,職権採用の決定をしてもらい,検察官,弁護人の意見を聞いた上で決定するという途があることを示して欲しかった。そうすれば,これから裁判員になる人達の参考になっただろうと思われる。このドラマでは,手続遵守を主張する検察官や陪席裁判官はまるでスーパーマンに対する悪の妨害者扱いであった。朝日新聞のコラム「試写室」は,裁判員は「善」法律家は「悪」と描く構図に制度のPRビデオ臭さを感じたと評しているが,私はPRとしての建設的な側面の乏しい裁判員ドラマであったと感じたのである。

(平成21年6月)